『明治150年』に触れて ・ ・ ・

     明治150年 に触れて ・ ・ ・
2018(平成30)年は、明治元年(1868)から起算して満150年に当たるとともに、“北海道”という地名が明治元年に制定されてからも150年に当たる。これを機に、それぞれの150年の来し方に少しく触れて見る 

画像明治維新以降、近代的な国民国家への道へ踏み出した日本は、森羅万象にわたり近代化への取り組みを通じて現在の基本的国家体系を築き上げてきた。しかし一方で、昨今の日本の足元に目を転じると、人口減少・超高齢化社会の到来や不透明感を見せる世界経済動向など変動の時代を迎えており、恰も近代化に向けてさまざまな困難に直面してきた明治期との重なりに思い至る。こうした中で日本政府は、明治以降満150年を迎えた今年(2018)を節目と捉えて改めて明治期を振り返ることで日本の将来像に目を向けていくことは意義のあることと考え、内閣官房副長官を議長とした「『明治150年』関連施策各府省連絡会議」を設けて政府が一体となった『明治150年』に関連する諸施策の展開が推進されている。
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 ちなみに、同関連施策には三つの柱が掲げられており、その一つは明治以降の歩みを次世代に伝えるためにデジタルアーカイブ化の推進などにより明治期の歴史的遺産や明治以降の歩みを未来に遺し、次世代を担う若者に将来の日本を考えてもらう契機とするための施策。二つ目は、明治期の精神に学び、さらに飛躍する国へ向けた施策である。明治期の各方面で活躍した人物や事象などは、時間の経過とともに記憶からは薄れていく中にあって改めて知る機会を設け、明治期に生きた人々の精神の拠り所を捉えることでかつての日本の技術や文化の強みを再認識して現代に活かし、さらなる日本の発展を目指す基盤に据えようとするものである。三つ目は、『明治150年』に向けた機運を高めていく施策である。国のホームページなどを通じて関連する施策や取り組みに対する情報提供を行うとともに、“明治150年”のロゴマークを製作・掲出して広報に努めていくものである。この『明治150年』関連施策は、明治維新に限定した時期のみを対象とする取り組みではなく、維新の時期も含め明治期全体にわたるさまざまな事項を対象としたものである。その上で、政府としては国だけでなく、地方公共団体や民間も含めた日本各地での『明治150年』に関連する多様な取り組みの推進を求めている。

150年前の明治新政府にとっては、政治制度の全国的統一、軍事力の強化および近代諸産業の育成、殖産興業政策を旨とする政策(富国強兵)を遂行していくためには、その基盤となる陸運輸送手段の確立が急務とされていた。すなわち、旧時代に替わる近代的輸送機関の構築が望まれ、その役割を担うとされたのが技術をはじめあらゆる面でノウハウを持たず、過去に導入の経緯さえもなかった鉄道の建設であった。その導入・建設に当たっては解決すべき問題が山積みで、鉄道の先進国であるイギリスに範を取り資金や建設資材の調達、技術者の雇用に至るまで一切合切を一任して頼らざるを得ない現状に当時の明治政府は置かれていた。ただ、その中で注目に値したのは、外国頼みでありながら建設計画における主体性はあくまでも日本政府が執り、政府の手中に留め置いたことである。
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                         浮世絵に描かれた開業当初の日本の鉄道
 日本の鉄道建設計画が最初に行われたのは、東京~京都間の幹線路線と東京~横浜間、京都~神戸間、琵琶湖畔~敦賀間の3支線・計4路線が政府決定された1869(明治2)年11月のことであった。これらの鉄道建設工事は、当時の世状から沿線住民の反対や陸上交通の主力だった馬子や車曳きなどの妨害、軍部の抵抗など数多の困難に遭遇しながらも、本家イギリスの鉄道開業に遅れること47年、アメリカの鉄道には42年遅れて1872(明治5)年9月12日に日本最初の鉄道が新橋~横浜間(約29km)で開業を見た。明治政府の鉄道建設計画決定(1869)から20年後、1889(明治22)年7月に幹線の東海道線が全線開業したことでようやくにして政府による建設予定線の全路線が完成に至っている。
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                             明治初期の日本の鉄道
津軽海峡で本州から隔てられていた北海道は、江戸時代の幕末までは中央(江戸幕府)から“蝦夷地”(アイヌの居住地を指して用いた地名)と呼ばれていた。しかし、明治維新となって明治新政府から見ると蝦夷地は異民族の地として映ることからら、日本の領土として明確にするために明治新政府により1868(明治元年)年に「北海道」という地名(行政地名)に変更・制定され、今年(2018)はその時から満150年に当たる。この“北海道”という地名を提案したのは、明治維新直後の1869年に蝦夷地開拓御用掛という要職にあって“地名”の選定を任されていた、サハリン(樺太)まで蝦夷の地をくまなく徒歩で探検して精密な地誌(地理上の地域の諸要素(自然、地質、気候、人口、産業、交通、歴史、文化など)を付加して地域性を論じた書籍)を書き上げて蝦夷地に係わる第一人者と認められていた、江戸時代末期から明治中期にかけて活躍した三重県松阪出身の探検家・松浦武四郎(1818~1888・今年は生誕200年)という人物であった。
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                            探検家著述家の松浦武四郎
 彼は、6つの名称(北加伊道・日高見道・海北道 ・千島道など…)を提案していたが、そのうちの「北加伊道」が選ばれて字遣いを“北海道”と変えた上で採用され、彼は従五位(旧位階の一つ)に叙せられて開拓判官に任ぜられた。彼は当時、松前藩(現在の北海道松前郡松前町に居所を置いた藩)の特異な場所請負制度(藩主が家臣に与える給与(知行)は石高に基づく地方知行ではなく、商場という場所の知行制度で成り立つ俸祿制度)がアイヌ民族(北海道、樺太、千島列島、カムチャッカ半島南部にまたがる地域に居住していた先住民族)の絶滅に繋がるとしてその実態を明らかにし、同制度の撤廃を明治政府に提案した。しかし、その提案を明治政府が認めなかったため、彼は自ら位階を返上し判官を辞任して東京に帰り、その後二度と北海道には足を踏み入れなかったといわれている。ちなみにアイヌはその後旧土人という低い身分に押し込められたが、この特異制度が撤廃されたのは1997(平成9)年のごく最近のことであった。

画像 日本列島最北の地・北海道に関して明治政府は、統治・統制に関して長い間にわたって本州とは別扱いを敷いてきた。それを証しているのが、今も北海道には“県”という行政単位がなく、しかも国土交通省の所管(地方支部部局)には“北海道開発局”(札幌市北区)という名称が健在で、今以て開発途上の地を匂わせるような境地にさせてくれる。ちなみに北海道開発局は、北海道における河川や道路などの国の直轄事業および都市計画や住宅・建設産業などに対する行政を担っている部局である。されど、“蝦夷地”から地名を変えた北海道は、明治維新以降中央から遠い寒冷の地でさまざまなハンディキャップを背負いながらも、本州列島の都府県に劣らない活力に満ちた地域社会を創出してきた。海峡に隔てられている不利な状況下で、従来から重工業などはあまり振るわない北海道は現在、都道府県別の年収ランキングでは全国で30位ながら、自然条件を活かした農業や牧畜業、水産業が盛んである。食料自給率では、生産額では4位ながら、カロリーベースでは221%(実質的な栄養価の高い食料生産率)と全国1位を示している。

行政地名の制定から150年の北辺の地・北海道、その地の鉄道事始めは本州の新橋(東京)~横浜間の開業から8年の時隔を置いた1880(明治13)年のことであった。北海道の豊富な石炭資源を活用して地元の産業振興を図るため、幌内炭鉱で採掘された石炭の輸送を目的として北海道開拓使(日本の官庁)によって1880年11月28日に開業した、官営の「幌内鉄道」(手宮~札幌間約36.0km)が北海道における鉄道の創始である。ちなみに建設にあたっては、先行開業した本州の京浜間などではイギリス様式が採用されたが、北海道初の鉄道ではアメリカ様式で建設された。
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                         北海道最初の鉄道官営幌内鉄道 〉 
 北海道初の鉄道開業(幌内鉄道)から138年を過ぎる現在、道内の鉄道輸送を担っているJR北海道が恒常的な赤字経営に苦しんでいる。もともと広大な土地の北海道は、本州の都府県に比べ人口密度が格段に低く、輸送を主体とする鉄道経営が営利事業として成り立ちにくい環境にあった。そのため国は、1987(昭和62)年の国鉄改革(分割民営化)に際して北海道の鉄道を引き継いだJR北海道の経営がJRへ移行後に自助努力のみでは黒字の維持は困難であるとの判断に立って、JR北海道に対して持参金(経営安定基金・6822億円)を持たせていた。勿論、JR北海道と同じ境遇に置かれていた九州や四国のJR会社に対しても同様の措置が講じられた。すなわち、経営安定基金の運用金利により経営を下支えする手法が採られたのである。ところが、後の国の低金利政策への転換により経営安定基金の効用が発揮されなくなり、画餠同然に帰している。
 画像今もJR北海道は、急速な人口減少や伸展する高速道路網の整備に伴い、特に地方部において鉄道利用が大幅に減少しており、輸送密度が2000人未満の路線がJR北海道全14営業路線(新幹線を含む)の6割を占める現状にある。こうした状況の下でJR北海道は、2016年11月に同社単独では維持することが困難な10路線13区間(総営業キロ2568.7kmのうち48%以上に当たる1237.2km)の見直しを発表し、地域の自治体などと共にその対処を相互に議論・検討している最中にある。日本が人口減少化の時代に入った現在、将来における鉄道の利用者減は避けては通れず、人口密度が低く広大な北海道の地においては今後も続いていくであろう輸送量の減少に対処していくために、地域の持続可能な公共交通体系をどのように構築していくべきなのか“北海道”命名150年を機に改めて考えを巡らせてみる時でもあろう。

今年(2018)は、日本が近代化への途を歩み出した明治元年から数えて満150年になることは前に触れた。その明治期当初において、近代化への事業として建設された日本で最初の鉄道の開業は、日本で古来から踏襲されてきた従来の原始的輸送事情を一変させる契機となり、日本近代化への基盤となった。この明治期に端を発した鉄道の発展は、大量で迅速かつ低廉な輸送を可能として国民生活の移動(交通事情)と手段(様式)を向上させて日本の近代化に大きく貢献すると同時に、狭い地域に縛られていた細民層の生活行動範囲をも拡大足らしめた。そしてまた、進展が著しかった当時の近代産業が必要とした勤労者層の雇用や就労を容易にした明治期の鉄道が社会に対して果たした役割(輸送)を改めて認識しようとするとき、この度の政府主導の『明治150年』関連施策の推進はその再認識にタイムリーな機会となろう。
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                           〈 …鉄道ありき新橋停車場…〉
 今、日本が近代国家構築へ歩み出した明治期に思いを馳せるとき、鉄道との結び付きを強く感ぜずにはいられない。人々は、そこに駅があって鉄道が走っているからこそ周辺に移り住み、通勤や通学、買い物などの生活文化を芽生えさせ現代社会を築き上げてきた。今でこそ、生活の移動手段として欠かせない鉄道の存在を保証することは国の責務であり、その輸送交通を支えていくことは現代社会における基本的人権の一つではないだろうか。
 何人も、“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”があると、日本国憲法第二十五条にはある。 (終)

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