帰 省… “駅前テント村”夜話

☆ ☆ ☆
 例年の如く日本国内では昨年の年の瀬も、年末年始を海外で過ごす人たちの出国ラッシュや故郷で過ごそうという人たちの帰省ラッシュが暮れの29日をピークに始まり、空港や高速道路、新幹線などが相変わらずの混画像 〈 中国の旧正月帰省ラッシュ 〉
雑ぶりを示した。その年末にメディアを賑わす帰省ラッシュは、何も日本に限った現象ではない。
 米国では、感謝祭やクリスマスを家族と過ごす習慣があり、その時期になると日本ほどではないものの、帰省ラッシュが発生する。また、旧正月を迎える人口13億3900万人(2011.5現)を擁する中国では、その前後の約40日間にわたり数億単位の人々が大移動する。その規模は、世界でも並外れて桁違いの延べ31億人を超える“大帰省ラッシュ”が展開される。旧暦の元旦(春節)は、中国では新年を迎え祝う大事な行事で、出稼ぎ労働者を含め故郷へ帰省する人たちが一斉に大移動を始める。各交通機関は毎年のごとく、この時期には想像を絶する大混雑・大混乱を来たし、鉄道などの主要交通機関では極めて切符入手困難な状況が例年のように繰り返されているようだ。

☆ ☆ ☆
 私が1958(昭和33)年4月に某大手私鉄に就職した同じ年に旧国鉄に入り、奉職の40年近くを当時“帰省客の本命”とも言われた上野駅で勤務を続けた、退職後20年近くの今日に身を置く市川紀之さん(72)は、高度成長期の頃に駅前に設けられたテント周りに大きな荷物を抱えて集まる故郷へ帰省する人たちの高揚した姿を、昨日のことのように覚えているという。
 上野駅から北へ向かうのに、新幹線はまだなく、高速道路も未整備という移動の手段が限られていた交通事情の時代に、お盆や年末に故郷へ帰省する人たちをはじめスキー客らで混雑する上野駅では、故郷などへ向かう夜行列車の座席を確保するため長い行列のできるのが恒例であった。しかしながら、列車を待つ帰省客をはじめとする人たちを駅舎内のホール(待合室)だけでは収容しきれずに、溢れた人たちのため待合室代わりに駅前に大きなテントを設立して待ち合いの場に充てていた。

画像
                         〈 上野駅前待合テント・1960(昭和35)年 〉
 一名“テント村”とも呼ばれた、待合室代わりの駅前テントは、1959(昭和34)年頃から立てられ始めたようである。上京して都会で働く出稼ぎの人たちや、集団就職などで東京近辺で働く人たちが、お盆やお正月を故郷で過ごそうと帰省する夜行列車を待つために、上野駅前のテント村には朝から帰省客たちが集まって来ていた。テント村は、久し振りに同郷の仲間たちと再会する場所であり、お互いの元気な姿を確認し合う場所ともなっていた。画像   〈 故郷へ向かう帰省客であふれる上野駅前の大テント・1967(昭和42)年12月 〉
 そして、帰省の列車を待つ間、テントの中では新聞紙や段ボールが敷き並べられて仲間同士が車座となり、酒宴も繰り広げられたという。喧騒な中での楽しげな語らいも、「何を語らっているのか方言でほとんど分からなかったが、みんな楽しそうでした」と、当時を懐かしむ市川さん。やがて日も暮れ、それぞれの故郷へ向かう夜行列車の出発時刻が近づくにつれ酒宴もそぞろに解け、帰省客たちは抱えきれないぼどのお土産が詰まった荷物を両手にホームへと小走りに入っていく、そんな帰省客たちの勇む姿を市川さんは長年見守ってきた。
 上野駅前の“テント村”が混雑の最盛期を迎えていた頃は、上野駅の他に東京、品川、新宿といった東京都内の各ターミナル駅も帰省客でごった返していた。お盆や年末には、東北や北海道、北陸方面などへ向けた列車の本数も増やされたが、上野駅は帰省客の本命であっただけに本来始発となる上野駅だけでは帰省客を捌ききれずに、一部の列車を品川駅始発で運転するようにもなった。そのため、一時期は品川駅にも駅前にテントが設けられたという。

画像
                   〈 相次いで出発する夜行列車を待つ帰省客で混雑する上野駅中央改札口・1970(昭和45)年12月 〉 
☆ ☆ ☆
 高度成長を続けた日本の経済も、1973(昭和48)年10月に起きたオイルショック以降、省エネが国家的課題となって産業や輸送部門などに止まらず、日常生活にまでその皺寄せが及び、社会全般に“節約”の二文字が浸透していった。
 この時期を境にして、社会環境の変動(高度成長下の地方経済の活発化、移動手段の多様化)による出稼ぎに頼らない生活設計の樹立や、経済抑制に伴う出稼ぎなどに対する需要規模の縮小化などから、帰省規模そのものの縮小で上野駅前のテント村も1975(昭和50)~76年頃には消えていったという。
画像
☆ ☆ ☆
 今も、息の長い人気を博している、かつての新聞連載漫画の「サザエさん」。朝日新聞連載5000回を超えた「サザエさん」の作品から、作者の長谷川町子さんが群を抜いて面白い作品だとして選り抜いたとされ、面白さ100%保証の幻のベスト版として全13巻からなる『よりぬき・サザエさん』(朝日新聞出版)が、30年ぶりにこのほど復刊(刊行中)された。発売即60万部突破というその数値が、サザエさんの相変わらずの人気を示しているようだ。
 1963(昭和38)年12月29日の朝日新聞朝刊に掲載された「サザエさん」では、当時の帰省の情景を映し出した四コマが描かれている。 …ノリスケ君が郷里へ帰省するというので波平は、彼の実家への贈り物を託すためノリスケ宅を訪れるが、彼の奥さんからすでに前日に発ってしまったことを知らされる。思うところがあって波平は、その足で東京駅へ向かう。案の定、乗車する夜行列車を待ちながら仲間と将棋を指しつつ、改札口前に行列しているノリスケ君の姿を見つける…。
 当時は、移動の足となる交通機関も限られて、一般には鉄道が主要な帰省の足となっていた。ただ、お盆や年末の混雑する時期は、列車の座席指定券にも限りがあり、遍く夜行列車を利用する帰省客は、前日あたりから駅で行列をつくって座席を確保していた。ノリスケ君も、座席の確保を狙い、過去の経験から推して出発の前日から行列に並んでいたのではないだろうか。
 この「サザエさん」が掲載された紙面と同一面には、「帰省客でにぎあう 各駅前にテント村」という、当時の世相を映し出す見出しの記事も載っていた。今から半世紀も前の、年の瀬ではあった。 (終)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた
ナイス

この記事へのコメント

風旅記
2015年07月17日 22:05
こんばんは。
興味深くこちらの記事を拝読致しました。東北地方、北海道方面全体を受け持った上野駅は、さぞかし混雑し、また遠く離れた土地の息吹を感じさせる場所だったのではないかと想像します。
中央改札に掲げられた夜行列車の案内も、壮観であります。
新幹線が開業し、飛行機の利用が一般化する過程で、上野駅に北日本の匂いが集中することはなくなっていったのだと思いますが、往時を知る方からすれば、随分と駅が静かになってしまったのではないでしょうか。
個人的には、それでも、今も上野駅に感じる遠方へ誘うような雰囲気が好きで、たまにこの駅を訪ねます。
上野東京ラインの開業で、ターミナル駅としての雰囲気はまた薄れてしまいましたが、それでも、魅力に溢れた駅です。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
啓汰のお爺さんです
2015年08月17日 20:50
こんばんは、お盆の頃は、53年前は、長距離列車の混雑は大変でした。とりわけ、九州方面は。東京から、20時間以上掛かる。寝台など取れない、三等車、冷房無し、蒸気機関車の煤煙が入る。時には、定員オーバーで、寝台車や、二等車へ、三等の客を誘導していた。又寝台車の通路に人が、多くて、車両が傾いて、慌てる事も有った。更には、定員オーバーの、車両と、そうでない、車両の連結部の段差で、連結の外れる、心配を、車掌さんがしていたのを、覚えてます。昭和37,8年頃大分と東京間を10回位往復した、当時の高校生です。又上野駅の混雑も、経験有り、ゆめのようだ、有り難い時代だ。先ず感謝ですな。車掌さんも、一番遠くからは、大分駅から、東京駅迄の勤務だったと、聞いて居ります。有り難い時代だ。有り難う。

この記事へのトラックバック