餘部鉄橋の余韻

986(昭和61)年の暮れも押し詰まった12月28日13時25分頃、当時の国鉄山陰本線鎧~餘部間の餘部鉄橋(長さ310㍍・高さ41㍍:兵庫県香美町香住区余部)を約50km/hで進行中の香住発浜坂行き下り回送列車(機関車(DD51形)+お座敷客車7両)が、突風混じりの強風を受けて機関車を除く全客車が脱線して高さ41㍍の鉄橋から転落した。この転落事故(明治45年の完成以来初めての転落事故)により、鉄橋直下に建つ水産加工場と民家が直撃を受けて破壊し、同加工場従業員の主婦5人と乗務中の列車の車掌を含む計6人が死亡し、6人が負傷を負うという重大列車事故が起きた。

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前から餘部鉄橋の周囲一帯は、直接日本海に面して開けていることから強風や突風の通り道となっており、列車運転に対しても要注意個所とされてきた。そのため、自動風速発信器付の風速計が鉄橋に付設され、CTC(列車集中制御)指令室へ風速の状況を自動通報できる設備となっていた。鉄橋付近の風速が25㍍を超えると、同指令室から鉄橋に係わる信号機に停止信号を現示できる仕組みだったが、当時CTCの指令員が餘部鉄橋の強風への対応に的確性を欠いたため転落事故という惨事に至ってしまった。
 また当時、この転落事故を助長させた過程として、別の解析がなされた。餘部鉄橋の建造から57年を経た1968(昭和43)年から8年計画で、鉄橋の補強を兼ねて縦方向の主柱(橋脚構成部材)以外の全部材の取り替えが実施された際に、横の部材がH形鋼に取り替えられて強度が増し、鉄橋自体の縦・横の強度バランスが偏った状態となっていた。そこへ吹き付けた突風混じりの強風が鉄橋全体にフラッター現象(空力弾性振動現象:風や気流のエネルギーを受けて起きる破壊的振動)を発生させ、鉄橋を通過中の列車の重い機関車がその振動によって蛇行動に陥りレールに歪みを与えたことから後続の客車の何両かが脱線し、そこへ強風の煽りを車体側面一杯に受けた全客車が転落に至ったとする専門家の事故解析であった。

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 ともあれ、あの転落事故から23年、見上げる鉄橋とともに今もあの悲しい出来事は餘部集落住民の記憶に新しい。転落事故の2年後、転落車両の直撃を受けた水産加工場跡地には、犠牲者の冥福と列車運行の安全を願って大きな観世音菩薩像の慰霊碑が建てられ、今も慇懃に手を合わせる人が絶えない。
 その餘部鉄橋事故から丸23年の昨年(2009)12月28日、小雪の降る中で、かつての事故現場に建つ慰霊碑を前に遺族やJR関係者らおよそ100人が参列して、犠牲者を追悼する合同法要が営まれた。そして、事故発生時刻の13時25分に、花束と線香が手向けられて犠牲者の冥福と列車の安全運行を全員が祈った。今の餘部鉄橋は、来年度には新しいコンクリート橋に架け替えられて撤去(一部の橋脚は産業遺産として残される)されるため、現鉄橋における合同法要は最後となった。

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R山陰本線は、城崎海岸駅を出ると日本海のリアス式海岸沿いに鎧駅を経て、いくつかの短いトンネルを抜けると突然に空中に開けた深い谷間を渡る。そこが、日本を代表する鉄道の風景・風物として長年親しまれてきた餘部鉄橋である。
 餘部鉄橋は、水中でなく陸地に橋脚を建てた“陸橋”である。計画当初は、当時はまだ実施例の少なかったコンクリート橋梁とする案があったという。しかし、当時のコンクリートは品質が悪く、もしコンクリート橋梁として建設されていたとすれば、おそらく今の鉄橋のように現在まで使われ続けることはなかったであろう。
画像 山陰線建設当時、線路の敷設にあたって城崎~浜坂間の山越えは急勾配のため鉄道を通すには不向きで、海岸沿いも断崖絶壁が連続するためトンネルに頼るしかなく、そのトンネルは建設費が嵩むため短くする必要があった。それには、なるべく高い場所に線路を敷くことでトンネルを短くする術しかなく、その結果地上からかなり高い位置に架けざるを得なかったのが当時東洋一の高さを誇った餘部鉄橋だった。
 目が眩むほどの天空に架かる餘部鉄橋の下には、毎日の如くに鉄橋を見上げながら暮らしてきた、餘部の漁村の小集落が佇む。かつては、この集落の人たちが鉄道(山陰線)を利用するには、京都寄りの約2㎞先に位置する鎧駅まで急峻な山道を辿らなければならなかった。その集落の人たちが、約50年近くも囲ってきた不便がようやく報われたのは、餘部鉄橋から間近いところに設けられた餘部駅が開業した1959(昭和34)年4月のことだった。
 1912(明治45)年建造という、長い歴史を刻む勇壮なトレッスル構造の今の餘部鉄橋は、南側の山間部と北側の日本海に面した入り江に挟まれて深い谷間を渡り、海岸部から100メートル足らずのところに建つ。多雨や強風といった地域の気候風土の厳しさとともに、年百年中潮風にさらされ続ける環境の下で、常に防錆ペイント塗装や構成部材の更新等による不断の保守により餘部鉄橋は現在に至るまで維持されてきた。
 しかしながら、日本海から吹き付ける潮風に耐え抜いて山陰の幹線輸送を支えきた日本で屈指の餘部鉄橋も、近年の劣化の進行状況や列車の運行効率の悪さ(強風による運転規制が常に伴う)から、新しい橋梁に架け替える時期に至っていた。その結果、強靱で安全性の高いコンクリート橋梁への架け替えが決定し、現鉄橋の約6㍍南隣脇で現在、2010年秋頃の完成を目途に2007(平成19)年3月から架け替えの工事が現鉄橋とほぼ同じ規模により進行中である。
 新橋梁には、海側に面して高さ1.7㍍の防風壁が設置される。これによって、現在実施されている風速20㍍以上における列車運行の見合わせが、風速30㍍まで運行が可能となり、列車運転の安全と運行効率が向上される。

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                           (△ 新餘部橋梁イメージ図)
百年近くにわたり長久の風雪雨に耐え、日本海側の幹線鉄路を支え続けてきた餘部鉄橋。そしてまた、その鉄橋下で暮らしてきた餘部集落の人々の、今につながる艱難辛苦の気持ちの支えともなってきたであろう餘部鉄橋。その餘部鉄橋に、近年の鉄道の求めに歩調を合わせるが如くに架け替えの完成が迫る。その際、1912年に開通した餘部鉄橋を中空に突き上げるかのように力強く支えてきた11本の鋼鉄の橋脚は、近代土木の産業遺産として鳥取側の3本が現地に保存されるという。
 勇壮で端麗なトレッスル構造の橋脚群が、高く伸びて構成する独特の機能美的な情景は、間もなく無機質なコンクリートの塊へと変貌する。餘部鉄橋を取り巻く環境に、一体どのような変容が訪れるのであろうか。長い歴史の紆余曲折を染み込ませた餘部鉄橋、その余韻を味わえるのもあと僅か、そして、その余韻を偲べるのも残される3本の橋脚に凝縮されよう。  (終)

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