暗闇の災禍…北陸トンネル列車火災事故

5年前の・・192人もの死者を出した大惨事、まだ記憶に新しい2003(平成15)年2月18日に韓国大邱市の地下鉄で起きた列車火災事故(放火)は、日本では乗客に死者が出るような列車火災事故は1972(昭和47)年の北陸トンネル列車火災事故以降起きていないことから、鉄道関係者には勿論のこと、一般社会にも火災事故の恐ろしさを再認識させる機会となった。

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 列車火災は滅多に起きるものではないだけに、火災事故に対する教訓の風化が懸念されるところだが、それだけに過去の事故や対策に学ぶことが列車火災事故を起こさないためにも大変重要となってくる。そうした観点から、列車運転の安全に関して三河島事故(1962.5.3)以降に“危険と思ったらまず列車を停めよ”との基本ルールに徹してきたものが、“トンネル内で列車火災が発生した場合は停車せずにトンネル外への脱出を最優先する”という取扱に改められる契機となった、JR北陸本線(当時国鉄)の北陸トンネル(福井県)内で起きた列車火災事故を振り返ってみたい。

日本海縦貫ルートの一翼として1913(大正2)年に全通した北陸本線は、以後、裏日本の旅客・貨物の重要な輸送ルートとしての役割を果たしてきた。しかし、幹線でありながらルート上には厳しい峠越えを伴う急勾配区間(柳ヶ瀬、敦賀~今庄、倶利伽羅)と、地滑りなどが頻発する屈指の災害区間(親不知、子不知)の難所が輸送上の隘路として存在していた。ところが、戦後(太平洋戦争)になって輸送量の増加につれ輸送力の確保が急務とされたことから、ルートの変更や複線電化等の施策が推進され、大規模な線形改良が実施された。その施策の一つが、1957(昭和32)年11月に着工され、工期短縮のため5ヵ所から掘り進められて1962(昭和37)年6月10日に開通した延長13.87㎞の、当時の在来線では最長の「北陸トンネル」であった。
 この長大トンネルの中で1972(昭和47)年11月6日、死者30人・重軽傷者710余人を出した列車の火災事故が発生した。その“北陸トンネル列車火災事故”と称された火災事故の状況を、「黒い炎との闘い」と題してしたためられた冊子(当時の国鉄動力車労働組合・北陸地方本部による)から抜粋・要約してみる。

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…1972(昭和47)年11月6日未明、北陸本線を青森に向けて北上する大阪発急行「きたぐに」(下り第501列車・15両編成)を牽いてきた機関車(EF7062)に、敦賀駅から乗り継ぎ交代で乗務したのはT電気機関士とO電気機関助士、それに添乗のS指導機関士の3名であった。
 列車は定刻をやや遅れて1時04分、冷え込む闇に甲高い気笛を響かせた。発車間もなく、1000分の11.5の勾配を上る北陸トンネルが待ち受けていた。15両編成は最長の旅客列車である。フルノッチで加速しながら北陸トンネルへ進入していった。新幹線の六甲トンネルに次ぐ、わが国第2位・13.87㎞の長大トンネルである。ようやく速度は、50km/hに上昇していった。約5㎞進行した1時12分頃、突如、運転席の無線機が鳴った。車掌からの緊急打電だった。「501列車、停まれっ、停まれっ」、続いて「火事だ!」と重なってきた。勿論、T機関士は躊躇なく非常ブレーキ弁を押しあてていた。…(中略)
…さらに「食堂車より煙り」の連絡があり、T機関士はS指導機関士に機関車の監視および緊急措置一切の後事を託して、O機関助士と共に小型電灯を頼りに約250㍍ほど後部へ走行した。到達した11両目の食堂車には異臭と煙が充満いていて入れず、さらに後部寄り台車の上部側板内側に燃える赤い焔を現認した。すでに使用し尽くされた消火器、I客扱専務車掌の消火見込みに対する言動から消火不能と判断、合議の上規程に定める火災車両の切り離しを決断した。
 まず、機関車へ駆け戻り、車両用信号炎管の点火、緊急防護、高圧電気暖房スイッチの切りをS指導機関士へ依頼、再び現場へ向かう。後部4両滞留車の手歯止め装着を確認後、切り離し作業に入ったが、足場が悪く暗い上に全くの未経験等で7ヵ所を切り離す作業は難渋した。ようやく連結器を解錠するもS指導機関士との連絡が取れず、再び機関車へ走行、約60㍍前後移動して停車、後部寄りの第一次切り離しが完了した。
 また後部へとって返し、さらに食堂車前部寄りの第二次切り離しに入ったが、この頃より火勢が増大。ようやく切り離し作業が完了しようとした寸前、漏水防止用の雨トイが架線に垂れ下がって接地したことで送電停止となって停電、マンホール内の電話に向かって叫べども送電は行われず、機関車の走行一切が不能となる。かくして真っ暗闇のトンネル内は燃え上がる食堂車の焔と煤煙で満たされていき、ほとんど視界を閉ざされた中でそのガスにも呼吸を奪われ、「きたぐに」は大混乱に陥れられたのであった。
 最前部の1号車から順次車内通路を抜けて乗客への誘導を叫び、乗客の手を引き誘導し、デッキの下で肩車をして乗客を降ろし、なお叫びながらの誘導も煙に巻かれて失神と昏倒を繰り返し、遂に線路の側溝に倒れ込んだ機関車乗務員の献身(S指導機関士死亡、T・O両乗務員重体にて救出)も甲斐なく、死者30名・重軽傷者714名という、わが国の鉄道トンネル災害史上未曾有の大惨事となったのであった。…(中略)
…やっと探り当てた真っ暗闇のマンホール内で、かろうじての明かりで携帯電話機の端子を取り付けて打電してきたO機関助士からの緊急通報で、現地敦賀に対策本部の設置がなされたのは2時寸前で、食堂車の炎上がピークを迎えようとしている頃であった。
 直ちに、敦賀駐在運輸長から、運転・運輸・電力・通信等あらゆる現場機関に非常招集が発せられた。闇にぽっかりと口を開けたトンネルからは徐々に煙が噴き出し始めていた。後続で発車した2565貨物列車は、進路を塞がれ、すでにトンネル内で立ち往生しているはずであった。「きたぐに」はどうなっているのか、乗客の安否は、等々何もかもが五里霧中に近い中で救援列車が計画された。…(以下略)

北陸トンネル列車火災事故の概要を、改めて以下に要約する。
 1972(昭和47)年11月6日、北陸本線(当時国鉄)敦賀駅を1時04分(2分遅れ)に発車した大阪発青森行き下り急行旅客列車〈きたぐに〉(第501列車・客車15両編成:指導機関士・機関士・機関助士・客扱専務車掌・荷扱専務車掌各1名、乗務指導掛2名、乗務掛4名、鉄道公安職員2名の国鉄職員計13名のほか、食堂車従事員8名と郵政職員9名が乗務、乗客761名乗車)が、北陸トンネル内を時速約60㌔の力行運転で進行中、前から11両目の食堂車から煙が出ている旨の通報を車掌が乗客から受けた。その時刻は、1時10分頃であった。

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 客扱専務車掌は13両目に乗務していたが、直ちに乗務掛とともに11両目の食堂車に急行し、消火器を使って消火に努めるとともに、車掌弁によって列車の停止手配を取り、無線機で機関士に火災の発生を告げた。機関士は、後部から非常ブレーキが作用したのと同時に、車掌から火災発生の通知があったので非常停止手配(急停車)を取った。これにより〈きたぐに〉は、敦賀方入口からトンネルを約5.3㎞入った地点に非常停車した。その時刻は、1時13分頃のことであった。
 〈きたぐに〉に乗務していた列車乗務員・動力車乗務員・警乗公安職員および食堂車従事員らは、消火器を使用し全力を挙げて消火に努めたが、増しつつある火勢で消火はいよいよ困難となっていった。そこで、相互打ち合わせの下に前から11両目の食堂車と12両目以降の客車を切り離し、約60㍍の間隔を開けた。そしてさらに、火災の食堂車を孤立させるため10両目客車との切り離し作業に入っていたとき架線が停電となり、切り離しの移動も列車の運転もできなくなってしまった。1時52分が停電の時刻であった。
 やむを得ず〈きたぐに〉の乗務員は、乗客の避難・誘導に努めるとともに、救援列車の出動を要請した。金沢鉄道管理局(当時)は、事故対策本部を設けるとともに警察署、消防署、自衛隊、病院等の応援を得て、救出作業にあたった。その救出作業は、トンネル内に充満した煙のために困難を極め、火災事故から10時間近くを経た11時35分頃までかかってやっと乗客および職員等全員の収容を確認し、トンネル内から〈きたぐに〉の車両を12時43分頃に敦賀駅および今庄駅に収容した。
 この火災事故により、〈きたぐに〉の乗客761名・職員等30名のうち、悲しくも乗客29名・職員(指導機関士)1名の30名が死亡、714名が負傷した。この大惨事を引き起こした直接の原因は、食堂車(オシ17形:1928(昭和3)年製、1968(昭和43)年に近代化改造された旧い食堂車で当時全7両在籍していたが、この日を以て全車両使用停止となった)の喫煙室座席下にあった暖房用電気ヒーター(ニクロム線)の配線が老朽化していた上、施行規程にそぐわない設置がなされていたため、振動で外れた鉄製のヒーターカバーが配線に接触して電気ショートを起こし、その時の過熱が周囲のゴミなどに燃え移って起きたものと推定された。
 ちなみに北陸トンネル列車火災事故については、「事故の鉄道史」(佐々木冨泰・綱谷りょういち著 日本経済評論社刊)“第12話・北陸トンネルと「きたぐに」”に詳しい。

当時、北陸トンネル列車火災事故を契機に国鉄の採った対応・対策等は、列車火災の特殊性からそれに対処するため、日本で最高の専門の権威者と国鉄の総合力を集めて「列車火災対策技術委員会」が設けられ、専門的・総合的な検討が行われた。
 そして、世界でも希な実際の車両を使った車両火災実験が実施された。第1回目は大船工場内で、第2回目は北海道狩勝実験線(廃止路線)において、実際に火をつけた車両を走らせて行われた。第3回目は宮古線のトンネル内を、列車火災が起きたまま(客車が炎上したまま)通り抜ける実験であった。これらの実験結果から、トンネル内で列車火災が発生した場合には停車せずに走り抜けて、トンネル外で消火措置を取る規程に変更された。
 それまでの規程では、三河島事故以来、事故が起きた場合には直ちに列車を停止させ、危険防止の処置を行い、併発事故防止に努めるとしていた。また、列車火災発生時においても明確な規程などなく、諸事故に対する取扱に準じていた。
 ちなみに北陸トンネル列車火災事故で起訴された担当乗務員(T電気機関士およびI客扱専務車掌の2名)に対する公判(1980(昭和55)年11月25日に無罪判決)は、事故から8年と19日・59回(1975.6.24~)を重ねた。その公判の最終陳述で、検察官の論告に対してT機関士は次のような意見を申し述べている。
…『・・昭和37年の三河島事故以来、私達機関車乗務員に課せられた責任は、事故が起きたら走っている列車は必ず直ちに停止させ、危険がなくなるまで列車を走らせない処置をとり、そして併発事故を防止することでした。この責任さえ果たせば、現場の乗務員としては十分であると教え込まれてきました。旧来の国鉄は、ともすれば嵐の中でも列車を停めてはいけないと教え、列車を停めることは機関車乗りの誇りが許さないという、特攻的な精神もありました。
 しかし、新しい運転保安規程によって教育訓練された私達の世代の機関士は、異常があったときには、列車を直ちに停めてこれを動かさないことが最大の安全につながると教えられ、私達もそのように信じて来ました。検察官は、列車を走らせなかったことが手落ちになると私達を非難していますが、本当に理解できない、信じられないことです。・・』…(「事故の鉄道史」から引用)

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北陸トンネル列車火災事故に対しては、100パーセント国鉄のミスとして指摘され、全ての非難が国鉄に集中した。そして、このトンネル内列車火災事故に関して、列車に乗務していた職員の処置が不手際であったという非難が少なくなかった。果たしてそうだったのであろうか? 改めて考えてみたい。
 不手際の第一番にいわれたことは、何故火災中の列車をトンネル内の途中で停めたのかということだった。危険を感じたとき、事故が起きる恐れがあるとき、あるいは事故が発生して併発事故に及ぶ恐れがあるときには直ちに躊躇することなく列車を停止させる手配を取ることが事故防止の最大要件として、国鉄という長い歴史の中で数多の事故経験から、また、三河島事故を契機に指導・遵守されてきた。事実、こうした緊急停止によってどれほど多くの事故が防がれてきたことかは想像に難くない。この取扱の思想は、今後も事故防止の基本ルールとして変更されることなく、受け継がれていくものである。
 また、火災車両を切り離してトンネルから抜け出すまで関係者は何をしていたのか、との非難もあった。この一連の事故処置には、車掌、機関士、公安職員等によって隠れた必死の救助行動が取られていたことを見逃してはならない。
 乗客からの火災通報、車掌弁による非常停止手配、機関士との連絡打ち合わせ、隣接列車の防護、駅への通報、消火作業、火災車両の切り離し、乗客の誘導等々、暗闇の煙が立ち込める中で可能な限りの事故対応手配が次々と取られていたのだ。隣接線路(上り線)の対向列車(〈立山3号〉)も、機関士の緊急防護(発炎筒点火、軌道短絡器設置)によって停止させ併発事故を防ぎ、しかも、多くの乗客(225名)がその立山3号に誘導されて救助されている。そして、トンネルから抜け出そうと、2回目の切り離し作業を開始しようとした直後に架線が停電となって、再びトンネル内停留のやむなきに至ったのである。その停電の下での、しかも真っ暗なトンネル内での乗客の誘導・避難には、想像以上の困難を極めたに違いない。悪条件が二重三重と重なる中で、事故処置への手配が裏目裏目に転換していってしまった運の無さをどう解したらいいのだろうか。
 火災現場における関係者の行動に対しては、トンネル内という極めて困難な条件の下にあって、これ以上の救助行動を求めることへの方途を知らない。

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食堂車の火災事故は、北陸トンネル火災事故の5年前にも起きていた。1967(昭和42)年11月15日、東海道本線の愛知御津駅を通過中の下り急行〈安芸〉(14両編成)の食堂車の屋根上から出火しているのを駅員が発見し、三河三谷駅に臨時停車させて消火に努めたが、全焼して食堂車従事員の2名が死亡した。原因は、石炭レンジの残り火不始末による出火であった。
 幸いにして、北陸トンネルの列車火災事故以降、この火災事故を契機に車両の難燃化を中心とした諸施策の実施、防火設備の充実、消火器の整備、旅客の避難・誘導対策、情報連絡設備等の整備、防火管理体制の充実、十分な防火点検と訓練などについて国鉄(JR)・私鉄を問わず真剣に検討が重ねられてきた結果、忌まわしい列車火災事故は起きていない。
 これは私事だが、北陸トンネルが開通(1962.6.10)して間もない4ヶ月後の10月に、日本一周旅行の途上で北陸本線を通り、真新しい北陸トンネルをくぐり抜けている。勿論、当時の在来線で13.87㎞長を超える長大トンネルは北陸トンネル以外にはなく、初めての経験を前にわくわくしていた気持ちであったことと同時に、窓外を一本の筋の如くに流れ続けていた蛍光灯の白い光の帯をいつまでも目で追っていた印象が強く残っている。
 その北陸トンネル内の照明(蛍光灯)は、先の列車火災事故を教訓に多くの安全対策が採られた中の一つとして、それまでは運転士の信号確認に対して妨げになるという理由(信号灯が照明に馴染み早期の判別が困難になる)から常時消灯することになっていたが、事故後直ちに常時点灯されることとなった。
 開通当初は、私の先の記憶からも、常時点灯であったらしいが、それが何時の頃から常時消灯となったかは調べる術もなく定かでない。また、点灯スイッチの設置位置は当時、乗務員には周知されていなかったらしく、この簡単な取扱(スイッチの投入)ができない状況にあったこと(暗闇)が、火災車両の切り離し作業や乗客の誘導・避難の大きな妨げにもつながっていた。
 暗闇の中の避難行を、救助されたある乗客がいみじくも語っている。“トンネルの壁に手をつき位置を確かめながら、つまずきつまずきして壁沿いを走り、トンネルが少し曲がった遠くからこちらを照らしている二つ目玉の明かり(停車していた上り急行〈立山3号〉)は強烈な印象だった。真っ暗で煙の充満していたトンネル内を逃げ惑う私たちに、どれほどの安心感を与えてくれたか計り知れない”と…。
 〈きたぐに〉が停車した個所から今庄側の出口へは8.4㎞あったが、この間の暗闇を徒歩で脱出したのであろう人たちが、トンネルの壁に手を触れ、位置を確かめながら出口へ向かったときに付いたのであろう跡が、白い線となってやや波打ちながら煤けた壁に続いていた。もし、照明が点いていたとしたら、充満する煙に遮られもしたであろうが、トンネル内を逃げ惑う人たちにとってその光の存在だけでもどんなにか気持ちの救いとなったことであろうか。
画像 〈きたぐに〉に乗務していた13人の職員でただ一人犠牲となったS指導機関士は、暗闇の中でようやく探り当てたと思われるトンネル内の35号マンホールから「電気を送ってほしい…」との鉄道電話をかけて力尽きたのであろうか、電話の前で口にぼろ布を当てたままうずくまった姿勢で息絶えていたという。

完成間もない北陸トンネルを通り抜けた私が、あの頃に、トンネル内を走る列車の窓外に見た流れ続けていた一筋の白い光の帯が、列車火災事故のあの時にも点いていたら、どんなにか〈きたぐに〉の人たちが絶望感にさいなまれずに済んでいたことか、列車火災事故から35年以上経つ今に強く思うところでもある。この北陸トンネル列車火災事故は、煙とガスが充満する暗闇の中に、事故防止・処置等に係わる全てが凝縮された災禍であった。
 北陸トンネル敦賀坑口の線路脇には、北陸トンネル列車火災事故の慰霊碑が、傍らを通過する列車の車窓に向かって安全を祈るかのように建つ。 (終・「事故の鉄道史」参照)

この記事へのコメント

413系快速ホリデーライナーかなざわ
2008年12月06日 20:16
初めまして。こんにちは。私も北陸トンネル火災事故聞いてびっくりしました。私は39歳です。だからこの火災事故の時は9歳でした。南今庄の北陸トンネルの手前に住んでいました。1972年11月6日の1時頃。もちろん就寝時間のため寝てました。すると突然、外から焦げくさい臭いがすごくしました。「何だろう?」と私は思って北陸トンネルを見に行きました。するとトンネル内から「火事だ―!」と聞こえました。奥の方が明るい事にびっくりし、家族を呼びました。家族もびっくりし、消防に通報しました。数時間後、人が歩いてトンネルから出てきました。私はその人達に聞くと「きたぐにで火災が…!」と言ってました。信じられませんでした。そういう経験があります。今でも忘れられません。事故から36年…。
北陸路好きっ子
2013年12月17日 23:12
投書失礼いたします。当時私は3歳。おぼろげながらも、当時の昼のワイドショー番組を思い出します。一編成の客車から火が出ている再現映像が流れました。何をしているのかわかりませんでしたが、この放映はきっと 「きたぐに」出火についての報道であったのだと、今しみじみ思います。私は車を運転しますが、旅をするなら列車を選びます。JR職員の方々には、楽しい旅になるよう、安全点検をお願いいたします。
たぬき
2015年07月23日 20:22
対向列車が電車急行(立山3号)でしたので無線発報後比較的容易に後退できかつ車内にかなり多くの避難者を収容も出来ましたが、
もしあのとき上り列車が急行電車ではなく重量貨物列車だったら、避難者の収容も退行もままならずに二重遭難と言う最悪の事態になる更なる大惨事(立山3号にたどり着いたものの車内で力尽きて絶命された方すらいたそうです。)になっていた可能性は高いですね。
避難した乗客の手記にも「煙に追われまかれ周囲の乗客はバタバタと倒れていった。カーブを抜けた先に二筋の明かり(立山3号)が見えた時、『自分は死んで天国に向かっているのか』と思った。しばらく歩き、光の発信源に着いた時に気を失った。気がつくと病院の中で『煙が迫るなか急行電車の乗客が必死に車内から引っ張りあげてくれたから助かったが、折角救助された方々の中にはたどり着いた急行電車の車内で力尽きて絶命された方もいる。』と初めて聞かされた。」と有りますからね。

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