生みの親 東海道新幹線

☆☆あと5、6年も経てば、本州の北端から九州の南端までを新幹線は縦貫することになるだろう。その第一歩が、高速鉄道として世界に先駆けて登場した、東海道新幹線であることは周知の通りだ。
画像 その新幹線の“生みの親”と伝えられているのが、「十河信二」その人(第四代国鉄総裁)である。産みの苦しみを知るのは、生みの親をおいてほかにいない…とはよく言われることであるが、至極当然のことながら事実にほかならない。そのことから、物事の始めに大きく貢献した人を、歴史の上から世間では“生みの親”(あるいは何々の“父”)と呼ぶ。

☆☆旧国鉄は、公共企業体として発足(1949.6)後、従来の鉄道局・管理部を廃止して全国を27の鉄道管理局に分け、地方組織の大改正を行った。鉄道輸送(列車ダイヤ)は次第に戦前(太平洋戦争)の状態に戻りつつあったが、1955(昭和30)年に経済白書が“最早戦後は終わった”と宣言し、増え続ける輸送需要に追われて国鉄は老朽化設備の改善や復旧に手が回らず、輸送力不足が慢性的に続いていった。
 そして、輸送力の行き詰まっていた東海道線の打開策を検討するため、1956(昭和31)年5月に東海道線増強調査会(会長・島秀雄技師長)が設置され、東海道線改革案について検討が始まった。
 その一方で、鉄道技術研究所(現・鉄道総研)の創立50周年を記念した講演会が1957(昭和32)年5月に東京・銀座の山葉ホールで開かれ、最高時速250㌔の列車を走らせれば東京~大阪間を3時間で結べるという、国鉄の技術確信が披露された。これに対する世間の反響は大きく、新聞報道も大々的であった。
 これに関して十河総裁は、その新技術について関係者を呼んで話を聞いていた。このとき十河総裁は、東海道線の広軌別線(当時は標準軌間を狭軌に対して広軌と呼んだ)による新線建設推進の決意をしたといわれている。

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 十河総裁の要請で政府は、同年8月に日本国有鉄道新線調査会を設け、議論が交わされた。ただ、すでに世界的にも鉄道は斜陽化という根強い世論がある中で、敢えて高速鉄道建設に巨額の投資をするのは戦艦大和・武蔵や万里の長城と並ぶ“世界の三馬鹿”だ、と嘲笑する向きが一部にはあった。しかし、一度ハラを固めた別線による新線建設に対する十河総裁の決意は翻らず、政府への働きかけを頑張り通した結果、1958(昭和33)年3月に広軌別線案の東海道新線(当初は第二の東海道線の意味でこう呼んだ)建設は妥当との結論が出された。

画像☆☆十河総裁の鍬入れを以て1959(昭和34)年4月20日に、東海道新幹線の起工式が新丹那トンネル東口で行われた。同年6月に再任された十河総裁は、新幹線工事が順調に推移する合間を縫って、世界銀行からの建設工事費借款のため1961(昭和36)年に政府代表と共に渡米している。この借款は、新幹線の完成を世界に公約したかたちとなった。
 その十河総裁が新幹線建設に情熱を傾けていた最中の1962(昭和37)年5月3日、つとに知られるあの大惨事「三河島事故」(死者160人・重軽傷296人)が起きた。乗務員の信号ミスや列車防護措置の放擲等による人為的事故であるとして、国鉄は“タルミ”を問われて世間からの非難を受けた。勿論、この事故で、総裁の責任も強く問われた。
 しかし、十河総裁は「事故をなくすことが責任を取ることだ」として、事故に遭った被害者の家々を一軒一軒訪ねて詫び、総裁の椅子に踏みとどまった。そして、十河総裁は、“夢の超特急”とまで呼ばれ国民の憧れともなっていた東海道新幹線完成のテープを切るまではと、老躯に鞭打って総裁の職を守り続けたのである。

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☆☆十河信二氏は、「紫雲丸事故」(1955年5月11日に濃霧の瀬戸内海で起きた死者168人・負傷者122人を出した宇高連絡船の衝突事故)で辞任した第三代国鉄総裁長崎惣之助の後を受け、1955(昭和30)年5月20日に71歳で第四代国鉄総裁に就いた。
 東大法科大学政治学科を卒業後、鉄道院に入った。経理局会計課長、経理局長、満鉄理事などを務めながらも、鉄道以外の復興局経理部長や内閣の組閣参謀に起用されたり、郷里の愛媛県西条市の市長にもなった。
 しかし、敗戦(太平洋戦争)で公職を追放後は、総裁着任前の10年の間は鉄道弘済会会長など地味な存在として、沈黙の生活を送っていた。当時の毎日新聞は、総裁就任直後の「時の人」欄で「十河氏は戦後全く表面に姿を見せなかった。国鉄総裁就任と発表され、満州事変前後の満鉄理事としてはなやかな活躍を知っている人でさえ、“まだ生きていたか”と驚くほど沈黙生活を送ってきた」と、書いている。また、“鉄道博物館から引っ張り出されたオンボロ機関車”といった類の酷評には、「赤紙を受けて戦場へ行く兵士のつもりだ。鉄路を枕に討ち死にする覚悟」と、“大時代的”な決意の言葉で切り返していたという。
 そして、国鉄総裁として第三の人生を迎えた十河氏は、「国鉄の世間的信用がこんなに落ちたことは今までに一度もなかった。この信用回復のため老骨を引っ提げ最後の御奉公だと思ってお受けした。大臣(三木運輸相)から示された人事の刷新、経営合理化、紫雲丸事故の善後措置などは早急に実施するが、そのかわり政府に対して公共企業体の再検討をやって欲しい旨申し入れた。私は国鉄の経営の自主性を確立したいと考えている」と、当時の胸の内を語っている。

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☆☆“夢の超特急”開業のテープを切るまではと、頑張ってきた十河総裁の身が急転した。東京オリンピックの開催(1964.10)を目標に建設が進んでいた、新幹線の開業まで1年半となった1963(昭和38)年の春、十河総裁の任期切れ(1963.5)を前に建設予算の大幅不足が表面化したのである。
 当初、東海道新幹線は1972億円の予算でスタートしたが、その後の工事費高騰や建設設計の変更などで945億円の資金不足が生じているとの国鉄の申し出に、同年春の国会で追加予算が認められた。しかし、その直後に、その追加予算でも大幅に足らない(874億円)という情報が流れていた。
 もともと、2000億円程度で完成する考えは当初からなく、建設予算を初めから3000~4000億円としては建設工事自体が認められなくなりそうなので、小出しに予算補正を請求したのではないかといわれ、国会における総裁の責任追及となった。政府は、新幹線の開業まで米寿を迎える老総裁を留めたいとの人情論もあったが、1963年3月に“再任せず”と発表、後任候補の人選を始めた。
 2期計8年の国鉄総裁(歴代総裁10人のうち最長任期)を務め、短命で終わっている前代までの総裁に比べれば、ようやく安定した椅子に就いてくれたかに思えた矢先のことであっただけに、後に東海道新幹線生みの親として伝えられていることを思うとき、その新幹線が命取りになろうとは何とも皮肉なことであった。

☆☆最後の任期・1963年5月19日限りを前にした4月末、十河総裁は病床にあったが、その間に石田禮助氏が次期総裁を受けている。三河島事故当時、責任を問われた十河総裁を「絶対にやめてはいかん」とかばったのが、当時の国鉄監査委員長だった当の石田氏であった。
 任期終了を直前に控えた同年5月17日、5週間ぶりに国鉄本社に姿を見せた十河総裁は、自ら俳句(俳号“春雷”)を趣味としていたことから当時の心境を「二万キロ 鉄路伝いに 春の雷」「老兵の 消えて跡なき 夏野かな」と、句に託している。

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 翌1964(昭和39)年10月1日、十河信二氏が手塩にかけた東海道新幹線・東京~新大阪間が開業した。東京駅で〈ひかり1号〉初列車の出発式が挙行されたが、国鉄はこの出発式に十河と島の両氏を招待しなかった。画像出発式で、晴れの開業テープに鋏を入れたのは十河氏の後を継いだ第五代石田禮助国鉄総裁であった。“東海道新幹線生みの親”として後世に語り伝えられる十河信二氏努力の“夢”(テープカット)は、ついに叶えられなかったのだ。同日、国鉄本社に天皇皇后両陛下をお迎えした開業式の場に、感無量の面持ちをした十河氏の姿があった。
 「レールを枕に討ち死にする覚悟で国鉄の経営にあたる」と語ったのは、十河氏が国鉄総裁に就いたときの決意であった。現在の発展した新幹線網の源は、この決意に発する。
 生みの親の手から放れて、育ての親へと引き継がれた新幹線は今や、北は北海道から南は九州までその路線網を延ばす瞬間が迫っている。
 国鉄総裁退任18年後の1981(昭和56)年10月3日、“新幹線生みの親”は97歳で大往生する。「東海道新幹線をつくった男たち」のドラマ(2004.11放映・テレビ東京)で、元国鉄総裁十河信二の役を演じた三國連太郎さんは、その時のセリフが今も心に強く響くという。「二十歳でも夢のない奴は老いぼれだ。百歳でも夢を追う奴は若者なんだ」…。 (終)(鉄道ジャーナル別冊№39参照)

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この記事へのコメント

2021年05月24日 15:08
初めまして。
株式会社『わかさ出版』の吉丸と申します。
実は、東海道新幹線開業式のカラー写真を探しており、
こちらのブログを拝見してご連絡を差し上げました。
つきましては、上の開業式の写真の出所を
お教え頂けませんでしょうか。

何卒宜しくお願い致します。

yoshimaru@wks.jp




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