在りし日
鉄道の食文化 峠の力餅
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作成日時 : 2008/04/23 18:33
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近代化され、高速化された現在の鉄道では、峠越えとして交通の難所だったところも、かつてのように途中で水の補給や補助機関車の連結、スイッチバック等のために列車が一息(長時分停車)入れたり、乗客もまた、名物のそば・うどん・餅などを食して気分転換を図るといったケースは、ほとんど希となった。
「五街道」が江戸時代に整備されたが、その路程には一定の間隔で宿場が置かれ、休息場所や宿泊施設が整えられた。また、各宿場間や宿場外れには“立場”
(たてば)
と呼ばれたところがあって、そこには茶屋が建ち並び、旅の途中で一休みする旅人に一膳飯やお茶、酒などを提供した。
もともと山国である日本は、古くから諸国を人や物が往来する交通路として整えられてきた街道には、峠がつきものであった。当然、険しい峠越えにはそれなりの準備も必要だった。峠の麓や途中の見晴らしのよいところには茶屋が点在し、“峠の茶屋”と呼ばれ峠越えに備えてお茶や季節の食べ物、土地の名物などが供せられ、旅人の疲れを癒した。そうした峠越えに必要だった“食”は、今に受け継がれている奥羽本線(愛称・山形線)板谷峠の峠駅ホームにおける“力餅”の立ち売りの如く、峠越えが人の“足”から鉄道へ変わった後も残された、今に見る食文化の一つだろう。
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五街道当時の茶屋では、餅を食べさせる店が多かったという。峠越えに備え、前以て餅を食しておくと普段に況して力が出るという日本人ならではの餅への信仰があったらしく、現代にあっても峠のドライブインなどで名物餅が売られているのは、山越えには茶屋の餅が力を与えてくれる(人にだが)と思われてきたからではないだろうか。そうした茶屋の餅は、きつい坂道を行く上で力を付けるのにうってつけだったことから、“力持ち”すなわち“力餅”となったらしい。そうした経緯から、峠の茶屋には力餅が古くから存在し、街道が鉄道にとって変わった今日でも残っているのだろう。
勿論、坂道(勾配)が苦手なのは鉄道とて同じで、峠を控えた山間の駅では補助機関車の連結や給水(蒸気機関車時代)、スイッチバック等のためしばし停車し、乗客もつかの間の停車時間にホーム等で販売されていた名物のそば・うどんや駅弁などで息継ぎをした。その典型的な例が、信越本線碓氷峠越えでの横川駅の「峠の釜めし」であり、北陸本線の中山峠越えの今庄駅で供された「今庄そば」であった。
そんな情景の名残が、近代化なった現代の鉄道にあっても旅行者にとって切り離せない、峠の駅で供される食との関連であろう。
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そうしたかつての峠の“食”に、今は廃線となった信越本線横川〜軽井沢間の中間にあった熊ノ平駅のホームで立ち売りされていた、玉屋の「力もち」があった。
五街道のうちの一つ、中山道には、上州(群馬県)と信州(長野県)の国境に天下に名だたる碓氷峠があった。その峠沿いの立場にあった四軒茶屋の一軒が、「力もち」を売っていた玉屋であった。1884(明治17)年に、旧街道とは別ルートの碓氷新道(今の旧国道18号線)が開通し、その約10年後には信越本線の横川〜軽井沢間(アプト式・11.2q)が開通(高崎〜直江津間全通)すると、当然の如くそれまでの旧街道は徐々に寂れていった。旧街道沿いにあった玉屋は、碓氷新道の完成と時を同じくして熊ノ平付近へ営業の拠点を移し、それまで信号場だった熊ノ平が駅に昇格(1906
(明治39)
年)すると、同駅のホームで「力もち」の立ち売りを始めた。
創業250年余りの伝統を引き継ぐ玉屋の「力もち」は、もち米・あん・砂糖だけの無添加の手作りで、素朴ながら甘さ控えめのこしあんに包まれた、上品な味わいであるという。
熊ノ平駅には、列車の交換や蒸気機関車(後に電化)への給水のため、全ての列車がしばし停車した。煤煙や騒音、振動からいっとき解放された乗客の多くが、ホームに降りて山間の清涼につかの間浸りながら味わう、立ち売りの「力もち」を楽しみにしていたという。
しかし、1966(昭和41)年に横川〜軽井沢間は、アプト式が廃止されて複線・粘着運転化されたのに伴い、熊ノ平は駅業務が廃止されて再び信号場に戻された。そして、売り場を失った玉屋は、国道18号線の霧積温泉への分岐付近へ移転して玉屋ドライブインを営業し、「力もち」の製造販売は今も続けられているという。
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吾妻連峰の麓を行く奥羽本線の福島〜米沢間(40.1q)の、福島と山形の県境に横たわる板谷峠を上り下りしたかつての列車は、赤岩・板谷・峠・大沢の4駅を連続したスイッチバックで、33.3〜38.0‰の急勾配に挑んでいた。
この板谷峠の途中の、その名も峠駅で、同駅の開業(1899
(明治32)
年)当時から売られているのが「峠の力餅」である。今でこそ、山形新幹線の開業(1992年)によって様相が一変(ミニ新幹線化)し、峠駅はスイッチバックが廃止されて無人駅化(駅舎はスノーシェッド内に移転)されたが、険しい峠(勾配)の途中駅であることに変わりはない。
ガランとしたスノーシェッドの空間が広がる素っ気ないホームでは、列車が着くたびに“ちぃ〜から〜もち〜”と、「峠の力餅」を立ち売りする声が人気もほとんどない薄暗い空間に静寂を乱して響く。「峠の力餅」を売る同駅前に店を構える峠の茶屋は、もともとは米沢街道の峠道にあった茶屋がスタートだったという。初代の店主は、1894(明治27)年から始まった福島〜米沢間の鉄道建設工事現場で自らも働きながら大福餅の販売を行い、その開通(1899年)の2年後の明治34年に峠駅構内での大福餅の立ち売りが許可されたという。峠駅の「峠の力餅」の歴史は、以来107年も続いているのだ。
単線だった頃(1971
(昭和46)
年まで)の峠駅には、交換などで列車は30分近くも停車し、昭和30年代頃までは夜行列車も数多く運転されていたため、深夜でも飲み物や食料を求める乗客が絶えず、仮眠を取りながらの仕事も苦にはならないほど当時の「峠の力餅」は好調な売れ行きであったとか。現在では、同駅に停車する列車も少なく昔日の比ではなくなったが、付近の温泉や登山に訪れる人も結構いて、「峠の力餅」は今なお多くの旅行者に愛され続けているという。
小豆あんを、よく搗いた餅で包んだもので、柔らかな餅皮はコシと粘りがあって噛み応えがあり、きめ細かい甘さを控えた味わいにはついつい三つ四つと手が出てしまうほどだという。この「峠の力餅」の本来の味は、峠駅で食してこその味わいともいわれている。ここにこそ、鉄道の長い歴史の中で育まれた食文化の一端がある。
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日本の鉄道が育んだ食文化の大御所(代表)といえば、鉄道の草創の頃から長い歴史の中で培われてきた世界に類を見ない「駅弁」にほかならないが、先の峠名物の力餅や駅構内やホームで食すそば・うどん類をはじめ、車内販売で供される食、食堂車の多彩なメニューなど、鉄道は独特の食文化を今も提供し続けている。
また、定義めいたものはないものの、ローカルな町の駅前で風に揺れる大振りの暖簾を下げた“駅前食堂”も、所在する町や地元鉄道の栄枯盛衰を駅前で見つめ続け、旅人にひとときの寛ぎを提供してきた。くすんだ壁には、ずらり並んだこれまた飴色がかった品書きがぶら下がり、いつの頃のものとも分からない時刻表が貼ってあったりする店内には、過ぎてきた時代がそのまま残っているような、路線の匂いも漂う。そうした駅前食堂といわれる食の場も、鉄道とともに存在してきた食文化の一つではないだろうか。
こういった、日本における鉄道の食文化の多彩性は、山国であるが故の人や物の往来に障壁となってきた“峠”に、その端緒を見て取れるのではないだろうか。
(終)
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