“もはや戦後ではない”世相を走った列車

画像 カラオケでいつも歌う私のおはこは、今は亡き歌手の井沢八郎さんが歌って1964(昭和39)年に大ヒットした「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一)である。
 ♪ ~どこかに故郷の香りをのせて / 入る列車のなつかしさ / 上野は俺らの心の駅だ … このフレーズを目で追う前にメロディーが口をついて出てしまうほどに郷愁を誘う歌だ。かつての集団就職列車を生んだ世相の中で、都会の渦に翻弄されながらも頑張っていた地方出の若者たちを励ます応援歌でもあるのだ。“おはこ”は「十八番」とも書くが、「あゝ上野駅」の詩のモチーフとなったのが、“金の卵”と呼ばれた若者たちが集団就職で故郷を後にして降り立った、北国へ向かう長距離列車が頻繁に発着する、集団就職列車の専用ホームでもあった上野駅の18番線ホームである。画像その上野駅18番線ホームは、集団就職列車で遠く故郷を発ち、東京へ出てきた当時の若者たちにとっては限りなく故郷に近い香りのする場所だった。
 終戦から11年、1956(昭和31)年の夏に国は経済白書の中で“もはや戦後ではない”と公言して戦後の終了を宣言した如くに、日本の高度経済成長が始まった。ちなみにこの年の冬(11月19日)には、全通以来57年目にして日本の大動脈である東海道本線が、東京~神戸間589.5kmの全線電化を完成させている。この日を“電化の日”と定めた当時の国鉄は、高度成長の波に乗るがごとくに、各地で戦禍の残る国鉄の再建へ向け急ピッチで電化を進め、動力の近代化を図っていった。

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                       〈 東京・上野駅に着いた集団就職の第一陣・1954(昭和29).4 〉
 その経済成長がすこぶる高い成長率(実質14%超)を示して好景気時代(岩戸景気)を迎えた傍らで、東京をはじめその近郊都市部においては、中小企業や商店街などで人手不足が加速した。一方で、地方では復員や引き上げ者の増加で人余りが起きていた。そのため地方では、家業を継ぐ長男以外には仕事がないという、“次男三男問題”の深刻化が進んでいた。こうした世情の下で、人手不足の都会に中学や高校の新卒者たちを就職させようという人余りに悩む地方からの提案に公共職業安定所などが応えたかたちで、地方の中卒や高卒の就職者を集団で東京へ運ぶ専用の臨時夜行列車が1954(昭和29)年4月5日に初めて登場し、中高新卒者の少年少女ら600人余りを乗せた夜行列車は青森駅から21時間をかけて東京の上野駅に着いた。
 春まだ遠い、雪深い東北や上越などの地方から、学生服に身を包んだあどけなさの残る面持ちの少年少女たちがボストンバックや紙袋を提げて上野駅に降り立った光景は、新聞紙面などの大見出しで紹介された。そうした見出しが新聞紙面を飾るうちに、「集団就職」という言葉が世相に定着していった。
 当時の労働省は、地域間における人余りと人手不足に鑑み地方と都市部の双方に利するとして、集団就職の取り組みを全国に広げて本格的な対応を進めた。そして、たとえ単純な仕事であれ、内容をいとわない安価な労働力として1960年代を通じ、最盛期には全国から年に8万人近くの中卒者や高卒者たちが集団就職列車で都会へと向かったのである。東京では、求人たちの間で重宝がられて人気が急上昇していたこれら若者たちは、世間から「金の卵」としてもてはやされ、後には“ダイヤモンド”とか、“月の石”などとも呼ばれた。

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 桜咲く新年度の4月は、門出の季節でもある。同時にまた、精神的・身体的症状の見え隠れする“4月病”の季節でもある…。4月になると毎年の如くに、仕事や都会の生活に馴染めず、また、初めて親元を遠く離れて感じる孤独感からホームシックになったりして、郷里へ帰ろうと上野駅まで来て途方にくれている若者が後を絶たなかったという。
 故郷を遠く離れた地での不安や一変してしまった生活環境への戸惑い、憧れた東京への期待感と不慣れな日常生活における軋轢などがない交ぜとなって若者の心の中で交錯していたであろう、不安定な精神状態に堪えきれずに気持ちに余裕を失った果ての行動だったに違いない。こうした上野駅に来て途方にくれている若者に対し当時の上野駅長は、駅長室に招き入れて「あゝ上野駅」の歌を聴かせ、自らの経験をもとに諭して帰郷を思い止まらせ、引き留めに尽力していたという。またある時には、「あゝ上野駅」が大ヒット中の歌手の井沢八郎さんに電話を掛け、上野駅に来てもらって井沢さんに直接励ましてもらったこともあったという。
画像 その歌手の井沢八郎さん(本名 工藤金一・2007.1没69歳)も、20歳だった1957(昭和32)年に親に内緒で売った米で旅費をつくり、歌手を目指して東京へ向け青森県の弘前駅から夜行列車に乗っている。「あゝ上野駅」が大ヒットしていた当時、井沢さんは「中卒であることや、訛りで悔しい思いをした若者たちも多かったはず。同じ中卒の僕が歌って活躍している姿も励みになったのでは…」と自分語りに、いみじくも故郷を遠く離れて働く集団就職の若者たちをおもんばかって語っていた。
 やがて、「金の卵」たちを20年余りにわたって運び続けた集団就職列車も、高校や大学への進学率の高まりとともに中高卒者の急減により、1975(昭和50)年を最後に去来した世相の中に姿を消したのである。

 現在、上野駅不忍口の広場には、『あゝ上野駅』の歌碑(2003(平成15).7)が建つ。歌碑には、蒸気機関車の傍らを、集団就職で上京した学生服姿の少年少女たちが降り立った上野駅のホームを歩む様子を刻んだレリーフが嵌め込まれている。
 東京のターミナル駅の中でも、北国へ発つ独特の雰囲気を持ち、隅々に歴史の匂いを漂わせて個性的な存在であった上野駅は、2002(平成14)年に大々的にリニューアルされて、21世紀にふさわしい斬新な駅に生まれ変わった。かつて、就職列車に乗って各地の若者たちが降り立った集団就職列車専用のホームだった18番線は優等列車の減少で1999(平成11)年に廃止され、遠い故郷へと繋がっていたレールも消えた。

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 されど、集団就職列車に揺られて上野駅に降り立った戦後の日本繁栄の原動力ともなった若者たちにとっては、集団就職列車とともに上野駅18番線ホームは切り離せない存在だった。すでに老境に入っているであろう、集団就職で東京の土を踏んだ人たちにとってこの18番線が在った上野駅の片隅は今も、遠い故郷を偲び青春時代に想いを馳せる縁の場所なのだ。「あゝ上野駅」を作詞した関口さんは、仕事に詰まると自然に足が上野駅に向き、ただ駅頭をぶらつくだけで気持ちが落ち着くという。それほどに、関口さんにとっても上野駅は、“心の駅”なのである。
 “もはや戦後ではない”世相の中をひた走り、すでに遠い彼方へと去ってしまった集団就職列車ではあるが、今以て日本の高度成長期のただ中を走り抜けた列車として人々の心の奥に生き続けている。 (終)

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