彼方の参宮線六軒駅事故

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 昭和31(1956)年は、この年の7月に出された経済白書が「もはや戦後ではない」と、終戦(太平洋戦争)から11年を経過して“戦後”の終了が宣言された年であるのは先刻ご存知のことであろう。
 その昭和31年は国鉄(当時)にとっても、気動車の機能性と経済性を活用した都市間ビジネス準急や観光準急による旅客輸送の近代化が始まり、また、ヨーロッパに先駆けて木造客車の鋼体化を完了させ、東海道本線の全線電化も成し遂げ、寝台夜行特急〈あさかぜ〉(東京~博多間)の登場に加え、初のコンテナ専用貨物列車(汐留~梅田間)が新設される等々、輸送の近代化へ第一歩を踏み出した年であった。
 しかし、この昭和31年には、国鉄の事故史上でも特筆すべき大惨事が起きている。国鉄参宮線(現・JR東海紀勢本線)の六軒駅構内(当時は三雲村、現・三重県一志郡三雲町)で発生した、列車衝突事故の「参宮線六軒駅事故」だ。

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 当該事故は、機関車乗務員の信号誤認による過失事故とされ、また、死傷者の多くが修学旅行中の高校生など前途ある学徒だったことから、国鉄はこの事故に対して社会の厳しい批判と糾弾を浴びた。
画像 その前年にも、濃霧の瀬戸内海で宇高連絡線の「紫雲丸」と同貨物船の「第3宇高丸」が衝突(1955.5.11)し、小・中学校の修学旅行生らを含む死者168名・負傷者122名を出した。しかも、その前々年(1954.9.26)の台風15号によって青函連絡船の「洞爺丸」が座礁・横転したのをはじめ、同連絡船の貨物船を含め計5隻が沈没して計1430人もの犠牲者を出すという大惨事が続いていただけに、国会においても総裁・副総裁(長崎惣之助総裁・天坊裕彦副総裁)に対する罷免決議案まで提出されるといった状況に、参宮線六軒駅事故の国鉄に対する社会の非難は頂点に達していた。
 こうした経過からも、参宮線六軒駅事故は忘れてはならない鉄道事故の一つであろうが、半世紀以上が経過して今、彼方の列車事故としてともすると人々の記憶から忘れられようとしているのは、否めない事実であろう。

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 当該事故発生当日の参宮線は、伊勢神宮の大祭による多客で、しかも単線区間故に列車の運行が朝から乱れて各列車とも遅延気味で、運転取扱が輻輳していた。
 そうした状況の下で、1956(昭和31)年10月15日、国鉄参宮線(単線・通票(タブレット)閉そく式・腕木式信号機)の六軒駅では、対向列車(上り列車)の遅れで亀山駅(関西本線・参宮線の分岐駅)を約10分遅れで発車していた名古屋発鳥羽行き下り第243快速旅客列車(C51203+C51101+客車9両・換算32両)が遅延のため、同駅で定時運転中の鳥羽発名古屋行き上り第246快速旅客列車(C57110+C51172+客車11両・換算39両)と臨時に行き違い(交換)変更(所定ダイヤでの両列車の行き違いは1駅下り方の松坂駅)する旨を松坂駅の運転指令員から受け、両列車に対する同駅(快速列車は通過駅)での臨時停止手配と交換扱いの処置を取った。
画像 すなわち、六軒駅では下り快速列車に対する通常の通過取扱にしてあった信号機と閉そくの扱いを、停止列車に対する信号機と閉そくの扱いに変更し、上り快速列車に対する松坂~六軒間の閉そくと停止列車に対する信号機の取扱をすることであった。ただ、当時の運行ダイヤになって以降六軒駅での列車交換はなくなり、しばらく交換取扱から遠のいていたことから臨時の行き違い変更の連絡を受けた同駅では可成り戸惑ったのではと推測され、その取扱・手順が正しく踏まれたかは定かではなかった。
 なお当時は、列車無線の設備は装備されておらず、列車乗務員へのこの種通告は予め駅が発行する運転通告券を介して知らせるようになっていた。ただし、間に合わないケースも出てくるが、そのときには列車を駅外(場外)に停止させて直接通告することとなっていた。
 臨時の停止手配を取ったはずの六軒駅ではあったが、先着した下り列車は、六軒駅は通過駅であるとの先入観があってのことか、それとも約10分の遅れを少しでもばん回しようと気を急かせてでもいたのであろうか、信号機を無視でもしたかのように時速約60㎞で同駅を通過しようとしていた。
 当該機関士は、駅ホーム中間付近で出発信号機が停止現示であるのに気付いて非常ブレーキを扱ったが、安全側線に突入して車止めを突き破り、蒸気機関車2両と続く客車3両が脱線・転覆した。1両目の客車は右側の上り本線上に押し出され、2両目は1両目に乗りかかる格好で転覆し、上り本線を支障してしまった。そこへ、列車防護(衝突回避手配)の暇もない30秒を経ずして、松坂駅を定時に発車していた上り列車が時速約55㎞で進入してきて、上り線を塞ぐように脱線・転覆していた下り列車の客車に激突した。

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 上り列車の重連の蒸気機関車は、進路を支障していた客車に衝突してこれを押し潰し、そのときの衝撃で破損した蒸気機関車のパイプやバルブ等から噴き出た高温高圧の蒸気とともに熱湯が、押し潰れた下り列車の客車を襲った。
 この脱線・転覆による衝突事故で、42人が死亡し、94人が重軽傷を負った。ときに18時22分、周囲は夜の帳が降りつつあった。

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 犠牲者の多くが、下り列車の1両目の客車に乗車していた、鳥羽方面へ5泊6日で修学旅行中(事故に遭った当日(10月15日)の早朝、東武東上線坂戸駅を発ってきたばかりであった)の東京教育大学(現・筑波大学)附属坂戸高校(埼玉県入間郡坂戸町)の教員(3名)と生徒(24名)であった。他は、地元の乗客11名、国鉄職員4名(下り列車後部機関車の機関助士と乗客として乗車の3名)の15名だった。

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 事故現場では、国鉄をはじめ松坂市消防署、地元三雲村の消防団員、県警察機動隊、陸上自衛隊などにより懸命の救助作業が夜を徹して行われたが、客車の破損状態が尋常ではなく、しかも客車に覆い被さった重い蒸気機関車の撤去(操重車の出動)に時間を要し、負傷者の救出と遺体の搬出は難渋を極めた。搬出された大半の遺体は、蒸気機関車から噴き出た高熱の蒸気や熱湯を浴びて、悲しくも無惨な姿に変わり果てていた。
 当該事故では、駅関係者と機関車乗務員が起訴された。しかし、事故原因の究明にあたっては、通過信号機を誤認して出発信号機を冒進(無視して進行)したとされる下り列車の乗務員が、通過信号機は通過を示しており、ホームに進入したときの出発信号機は進行を現示していたとして信号機の停止現示は直前の変更であったと主張する証言と、関係信号機は全て停止列車に対する信号機の扱いであったとする駅側の主張の相違が、長年にわたって法廷で争われた。
 その間、法務当局等による証拠固めの詳細な調査結果によって、最終的には下り列車の機関車乗務員(先頭機関車)の信号誤認(不確認)と判定された。そして、下り列車の安全側線突入による脱線・転覆から上り列車の接近・衝突までの間合いは約30秒(推定)と短く、しかも夕刻の暗い状況の中で駅本屋から脱線・転覆個所の状況把握は困難であって、緊急対応処置(上り列車に対する停止手配)には無理があったとして最終判決では、駅関係者は無罪、下り列車の乗務員に対しては機関士に禁固2年(執行猶予5年)、機関助士には同1年(同3年)とされた。

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 六軒駅事故後、国鉄では緊急に安全対策の検討を進めるため総裁(十河信二)を委員長として「運転事故防止対策委員会」を設置し、主要路線に車内警報装置(停止信号区間を予め運転台へ警報する)の取り付けを決定している。
 列車運転に対しては、運転士の停止信号無視(不確認)は重大な事故を招くとして、この種事故を防ぐためヨーロッパなどでは20世紀の初頭から同様の装置がすでに導入されていた。日本でも、山陽本線の一部に設備する準備下にあったが、戦争(太平洋戦争)の影響でなし崩し的に頓挫してしまっていた。それが、六軒駅事故をきっかけにようやく日の目を見たという、後に今日のATSへとつながった車内警報装置の採用は安全対策上の重大な決定であった。同時に、当該事故は信号機の色灯式化・自動化をも促進させる契機となった。
 六軒駅事故では、下り列車に対する駅の臨時停止手配と機関車乗務員の信号確認について、その分秒を問う問題が長い間刑事事件として法廷で争われた。国鉄本社においても、今後の事故防止対策が検討され、さまざまな観点から議論が行われた。

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 その折り、時速60㎞で非常ブレーキを扱ったとされる下り列車の停止に至るまでの距離が異常に長かったと思われたのであろうか、その下り列車の非常ブレーキ距離が問題になった。その解明のため、脱線・転覆した下り快速列車と同じ編成(C51形蒸気機関車重連+オハ31形客車9両)を組み六軒駅で、事故当時と同じ状況で非常ブレーキの実験を繰り返して行い、停止するまでの実際の距離と理論計算上の数値(距離)との照合を試みた。
 ところが、全ての試行において実験値の方が理論値より100㍍以上も長いことが判明したのだ。その後も、操車場(竜華操車場)内において同じテストが繰り返されたが、何度試みてもその結果は、機関車寄りから3~4両目の客車までは非常ブレーキが作用するが、それ以降の後部客車には常用ブレーキしか作用しなかった。
 そのデータを基に、専門家によりいろいろと検討が重ねられた結果、重連組成された機関車の制動管(ブレーキ管)が40㍍以上にも及んでいるため、その長い制動管が空気溜の役目を果たしてしまうことから、先頭機関車で操作した非常ブレーキによる制動管の急減圧(空気圧力の減圧速度)が重連機関車の長い制動管の部分で膨張・緩和して減速され、後部方向客車のブレーキ制御弁(AV弁)にはその急減圧が伝わらないために非常ブレーキが作用しないことが判明した。
画像 そうした経緯があって、その後の重連を必要とする列車を牽引する機関車には、後部車両への非常ブレーキの伝達が確実に行えるよう改善策として制動管に「中継弁」が設けられた。これも、車内警報装置同様、六軒駅事故の所産であった。
 ただ、蒸気機関車に関しては、改善が困難なのと、動力近代化(ディーゼル化・電化)が進みつつあったことから全廃の計画がある中で、改善は行われずに運転操作上で対処することとなった。
 余談になるが、戦前は機関車の重連運転を必要とすることがほとんどなく、補助機関車を連結するにしても連結器の強度上から列車の最後部に付けていた。それが戦後になって、鉄道の輸送量が増え、輸送力が求められて連結する客車の両数が増加するにつれ補助機関車連結の必要が高まり、その際の作業効率等の問題もあって本務機関車+補助機関車という形態が慣例となっていった。こうした折りに、参宮線六軒駅事故がいみじくも前記問題(非常ブレーキ関連)を提起したのであった。
 中継弁(E吐き出弁)…機関車の大型化、ブレーキ管の増長、複雑化する機器配置、重連運転時のブレーキ機能向上等に鑑み、非常ブレーキ時における急動作用(圧力空気の急減圧=非常ブレーキ)の伝達・促進を図るために、機関車のブレーキ装置に設けられた空気弁である。すなわち、ブレーキ管内空気圧力の減圧速度が常用ブレーキの減圧速度を超えた場合に、その度合いを感知してブレーキ管空気圧力を一気に大気へ放出させて、列車全体(全長)にわたって非常ブレーキ作用の伝達を促進させる働きをする。

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 待ちに待って胸をふくらませ出発していった修学旅行の途上、突然に前途ある若い命が、参宮線六軒駅事故で失われた。その御霊は、特別臨時列車で松坂駅を発ち、悲劇の余韻さめやらぬ六軒駅の事故現場をいとおしむかの如く最徐行で通過し、本来なら楽しい修学旅行の途上であったはずの10月19日に母校へ悲しい帰還となった。
画像 あの日、名古屋駅で乗り換えて乗車した鳥羽行きの快速列車は、最後部の車両であった。名古屋発鳥羽行きの蒸気機関車に牽かれたこの快速列車は、走ってきた関西本線から参宮線に入るため途中の亀山駅で折り返す列車だったので、列車の進行方向が逆となって今まで乗車していた車両は先頭になっていた。彼方の参宮線六軒駅事故に思いを馳せるたびに、人生の悲喜を分けた過去のさまざまなターニングポイントの存在とともに、運命の悪戯が脳裏を掠めるのである。
 悲劇の彼の地には、紀勢本線六軒駅の南側に「参宮線列車事故遭難者慰霊碑」が建つ。・・・昭和三十一年十月十五日午後六時二十分、コノ地ニ於テ列車ノ衝突事故アリ、時アタカモ修学旅行期ト県下通勤者ノ帰宅途上ノ刻ニシテ、満員ノ列車ハ忽チ阿鼻叫喚ノ巷ト化シ、一瞬ニシテ四十二ノ尊キ人命ヲ失ヒ、多クノ重軽傷者ヲ出ス、三名ノ引率教官ヲ失ヒ生徒ノ大半ガ遭難、ソノ惨状ハ言語ニ絶ス、吾等ハ将来カゝル惨事ノ絶無ヲ祈念シテ止マス、今コノ処ニ慰霊ノ碑ヲ建テ四十二柱ノ御霊ヲ永遠ニ弔シ冥福ヲ資助ス   昭和三十二年十月十五日 三雲村長 宇野誠一・・・
 (終)…「三大事故録」「鉄道重大事故の歴史」「続・事故の鉄道史」「なぜ起こる鉄道事故」「鉄道ジャーナル誌」参照
 

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