追想 ・ 文学の中の汽車

          追 想 ・ 文学の中の汽車
・・・ “汽車”(電車や気動車を区別して呼ぶ際の列車通称の一つ)…、すなわち鉄道というのは一言で言ってしまえば単なる輸送のシステムの一つであり、その限りでは人や物を運び移動させるための方策(手立て)でしかない。その輸送手段である鉄道(汽車)が何故に、しばしば文学の中に昔から 顔を覗かせているのだろうか。それは多分には、鉄道が草創期から日常生活の中に深く浸透してきた経緯に、求められるのではないだろうか。すなわち、人が社会生活を営む上で欠かせない移動や生活の一部でもある旅行などの日常・非日常に関わり、生活の延長線上にある人生邂逅の描写に格好の手段でもある文学の中に鉄道が頻繁に描き込まれるのは、当然の成り行きともいえよう。要するに、鉄道は創設の当初から文学と深い関わりを持って登場してきたのである ・・・
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日本の鉄道創設(1872(明治5))後、数多の鉄道路線が時の経過とともに日本各地で誕生し、1902(明治39)年3月には鉄道の国有化が制定(鉄道国有法公布)されたことで日本の鉄道はその発達史上で一大エポックを迎えた。こうして鉄道はその後、生活の中での有用性が買われて全国各地への拡がりの連鎖を見せ、それに連れて人々の暮らしの中に深く定着していったのである。
 一方で文学も、外国作品の翻訳を主体としていた域を脱し、明治という新時代に相応しい作品(近代文学)が生み出されるようになっていった。すなわち、鉄道の発展・普及と文学の近代化とは、ほぼその軌を一にしながらその道程を進んでいったのである。そして、文学の中に鉄道が織り込まれるようになる経緯の下地は、明治期に創成されていったと言えるのである。
 ちなみに、日本の文学に初めて鉄道が織り込まれて登場したのは日本の鉄道開設前夜の年の1871(明治4年)年で、仮名垣魯文の「安愚楽鍋」作品近辺ではないかと推測されている。まさに鉄道開業前夜最中とあって、物見高い江戸っ子衆たちが着々と進む稀有な鉄道敷設工事の見物に挙って出かけたのであろう様子(鉄道見物の風俗)をいち早く捉えた記述であった。
 この「安愚楽鍋」に記述された“鉄道見物”の風情は、開業初期の汽車(陸蒸気)は運賃が高くてとても誰もがそうそう容易く気軽に乗れるものではなく、一般庶民にとっては乗るより見物の対象としてその後しばらくは“鉄道見物”が続いたのである。
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                           日本の鉄道開業絵図1872) 〉
鉄道の開業から明治も20年代の中頃に入ると、人々の暮らしの中にも鉄道は定着の度を深めていった。と同時に、文学の中に鉄道が取り込まれる下地もその幅を広げていった。明治期の文学の中で鉄道の描写が印象深く残るものを挙げてみると、小説では「汽車の友」(江見水陰)、「高野聖」(泉鏡花)、「その面影」(二葉亭四迷)、「坊ちゃん・草枕・三四郎」(夏目漱石)、「駅夫日記」(白柳秀湖)、「網走まで」(志賀直哉)など。紀行文では「はて知らずの記」(正岡子規)、「空知川の岸辺」(国木田独歩)など。そして詩歌の分野では、石川啄木の「一握の砂」などに収められた一連の短歌集である。いずれの分野においても、停車場や車中における出会いや別離が詩情豊かに筆致されており、今では窺い知ることが叶わない明治期の鉄道黎明期界隈の佇まいがそのままに伝わってくる文学作品ではある。
 ただ一方で、文明の利器ともいえる鉄道の存在(登場)を“是”と捉えない趣の記述(作品)が出てくるのも広い世間のこと、それもまた世の常だ。「草枕」(夏目漱石)の中に、過度の文明の進行は人間の個性を奪い去ってしまう懸念を強く抱かせたとするくだりの記述があり、その中に当時の鉄道観の一端が見て取れる。
画像 ・・・ 汽車の見える所を現実世界という。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩恵に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする ・・・
 また、尾崎紅葉なども夏目漱石同様に生理的に汽車に嫌悪感を抱いていて、鉄道に対する不快感を「煙霞療養」という作品であからさまに描写・記述している。ただ、文明の利器としての鉄道を総じて見れば、大方の文学者には文学表現上の好個の舞台として認識されていたようである。
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大正~昭和へと時代が進む中で、鉄道の情景・情緒を多分に織り込だ文学作品はそれこそ枚挙に暇がないほどに生み出されていった。それらの中でも傑作といわれたのが、目の中に入れても痛くないとは子どもに向けた表現だが、“目の中を汽車が通っても痛くない”と言うほどの汽車好きだった小説・随筆家の内田百閒(1889~1971)が顕した作品「阿房列車」シリーズである。これは、鉄道というモチーフ(文学的表現)を「鉄道文学」ともいえる領域(ジャンル)にまで昇華させた作品として知られている。
 しかし、時代も下がって昭和三十年代に入ると交通機関の多様化で鉄道も近代化が急進し、文学の中における対鉄道表現に情緒的要素が欠けていき、そのために文学的精彩に富む鉄道描写の作品の衰退が進んだ。それも無理からぬことで、カラフルなスタイルで窓も開かない特急列車(電車)群が高速度で東奔西走する環境の下では、やはり“情感”は描き難い。その後、文学界には“社会派”という名を登場させた推理小説「点と線」(松本清張)をはじめとして、その系譜が昭和三十年代以降も息の長い存在を示し、今も鉄道推理作家の西村京太郎を筆頭に類似の小説界は盛況裏にある。このように、多様な文学のジャンルに根を張り描き出されている鉄道は、文学に織り込まれたというよりもむしろ文学に割り込んだ感が強く、そうした作品に囲まれた近年ではある。いずれにせよ、汽車(鉄道)はこれからも文学の中を世相を反映しながら黙々と走りを続けることであろう。
画像                                                石川啄木
日本の鉄道が国有化(1906(明治39))され、鉄道史に大きなエポックが印された頃、一人の文学青年が東北地方の一隅から東京の上野駅に降り立った。歌人を志して上京した青年は、上京後の生活苦と孤高の身上から、望郷の念に駆られてはたびたび上野駅に出入りしていたという。その青年の名は、本名・石川 一、歌人の石川啄木である。
画像 石川啄木の詩碑JR上野駅 この望郷への想いを駅(上野駅)に託して啄木が詠んだ、誰しもが諳んじる有名なかの「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 」は、1909(明治42)年に刊行された詩集「一握の砂」に収められている。啄木は、日毎の生活に苦しみ抜いた果ての病(結核)で、1912(明治45)年に26歳の短い生涯を終えている。現在、JR上野駅16・17番線ホームの入り口端には、この詩を刻んだ「啄木の碑」が置かれている。いつしか、絶唱とも言われる啄木のこの詩を刻んだ碑は、夢を抱いて上京する人たちへの心の支えとなっている。
 明治期に短い生涯を生き抜いた石川啄木にとって“鉄道”は、詩の中に詠み込まれた鉄道情景の数々を以て類推すれば、どうやら啄木の人生舞台において重みのある存在であったことが見て取れる。漂泊の詩人とも言われた歌人・石川啄木は、新進詩人として嘱望されながらも失意の中を生地(岩手県南岩手郡日戸村・現在の盛岡市日戸)に戻り、その後に新天地を求めて心ならずも北海道(函館、小樽、釧路)へ渡っている。最初に居を構えた函館を大火で追われ、小樽へ移った。その小樽から啄木は、自ら創業参画した小樽日報の記者の職を辞して老母と妻子を小樽に残し、1908(明治41)年に釧路へ 単身旅立った。
 「子を負ひて 雪の吹き入る 停車場に われ見送りし 妻の眉かな 」…単身小樽を離れる啄木に、幼子を背負った妻の胸中はいかばかりであったろうか。啄木を道東の果てへ送り出さなければならない切なさと生活への不安さが、妻の眉間を曇らせたのだろう。
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                            中央小樽駅明治40年頃
 中央小樽駅(現・小樽駅)を発って 、途中で2泊を費やし、凍てつく釧路駅に着いたのは3日目の20時25分とされている。「さいはての  駅に下り立ち  雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき 」…重く鉛色の厚い雪のカーテンの中に在った中央小樽駅を午前に発って、57時間余りの列車行の旅路であった。この旅路の途上に啄木は、自らに寄せる落莫の心境をさまざまに詠んでおり、これらの詩は啄木にとって鉄道は人生そのものと言っても過言ではないほどに、自身の境遇に重なった表現であったのではないだろうか。鉄道に寄せる石川啄木の詩には、いずれも啄木自身の哀しくも耐え忍ぶ心情がこの上もなく表現されており、読む者の心を打たずにはおかない。

文学の中の鉄道(汽車)は主観的・情緒的媒体としての存在であり、文学と鉄道の間に情緒性を生み出す大切な部分である。それにしても、鉄道はほかならぬ輸送機関としての存在(メカニカルで機能本位)でありながら、鉄道ほどに文学の中に情感をもたらしてくれるシステムも稀有ではないだろうか。
画像 “国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった”…小説家・川端康成氏の名作「雪国」の、滑り出しの件である。文学における鉄道描写の白眉とも言われたこの出だしの部分は、作者が戦前戦後(太平洋戦争)を挟んで13年もの歳月をかけた推敲の末に生まれたとされている。とすれば、「雪国」(数種の雑誌に1935(昭10)年から1947(昭22)年にかけて継続連載され、1948(昭23)年12月に長編として発刊された)という文学作品の中で鉄道(汽車)が果たした役割はまさに大きかったと言えまいか。
 日本の鉄道創設(1872)から150年近くを経る中でこれからも、生活を取り巻く人生を描写する上で格好の手立てでもある文学には鉄道の情景がふんだんに織り込まれることで、読者に豊潤な読後感を与えてくれるに違いない。 (終)

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