時を経て・・・(“ああ上野駅”余話)

         時 を 経 て ・・・  ああ上野駅余話
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・・・ 終戦から11年を経過した1956(昭31)年7月17日に出された国の「経済白書」は、最早戦後ではないと“戦後の終了”を宣言した。このときを境に日本は、高度経済成長の時代へと突き進むことになる。先の敗戦で疲弊の渦中にあった東京の暮らしに活気を取り戻すため、不足する労働力を補おうと安い労賃と生真面目に働く中高新卒者たちが都市の貴重な働き手として地方から集められ、“金の卵”と呼ばれてもてはやされた。そうした多くの若者の働き手たちを、集団就職列車で東京に迎入れてきたのが上野駅(当時国鉄)であった。当時、その若者たちが降り立った上野駅を子や孫に誇れる思い出の場所にしたいと、若者たちの応援歌でもあった「ああ上野駅」の歌碑がJR上野駅の広小路口に建つ。地方出身の若者たちの応援歌ともなった「ああ上野駅」の歌碑は、昔日の青春への縁として今も行き交う多くの人々の足を引き留めている ・・・

画像 “青森県の評判を落とすな…”“津軽弁コ気にするな…”~1954(昭29)年4月5 日、国鉄東北本線青森駅のホームに整列した学生服姿の男女中高新卒者たちに激励の言葉が飛んだ。「しっかりやってきます!」…このとき、全国で初といわれた集団就職列車で約600人の中高新卒者たちが故郷の親元を離れて東京へと向かった。
画像 あの時から64余年、日本の高度経済成長期を支えた“金の卵”たちはすでに老境の域にある。集団就職の多くの若人たちを都会へと運び続けた集団就職列車も、生活の向上や上級校への進学率の高まりとともに1975(昭50)年にその使命を終えて廃止された。その後、集団就職者たちの応援歌とも言われた「ああ上野駅」が大ヒットしたのは1964(昭39)年だった。その「ああ上野駅」の歌は今も、当時の集団就職で地方から上京した人たちの胸の内を熱くして止まないという。この歌を歌って大ヒットさせた歌手の井沢八郎さん(1937~2007)も、当時20歳だった1957(昭32)年に親に内緒で売った米俵で東京への旅費を工面して、青森県の弘前から上京している。

画像 「ああ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一)を22歳の時に作詞した作詞家の関口義明(1940~2012)さんは、埼玉県羽生市の利根川縁に生まれた。中学生の頃、作文を先生に褒められて自信を得たことから書くことに興味を持って新聞・雑誌等に投稿するようになり、自分の名前が投稿欄に載ると大きな励みになったという。高校時代には、知人を通じて歌詞を研究する同人雑誌を知ってそれに加わり、独学で歌詞づくりに挑戦を続けていた。その後、高卒後にサラリーマン(銀行勤め)の仕事に就くが、その頃にさまざまな新聞が東北地方から集団就職列車で上京する中学生たちの様子を連日の如くに報じて紙面を賑わせていた。“金の卵”とか、“都会に馴染めずに脱落…”などといった悲喜こもごもの見出しがおどり、関口さんの心の隅にはその若者たちが焼き付いていった。
 当時は、雑誌やラジオ番組が盛んに田園歌謡ソングの募集企画を呼び物にしていた。銀行勤のめ側ら関口さんは、興味もあってある雑誌の歌詞募集に応募して入選し、後にその入選作作品となった「ああ上野駅」が関口さんをして作詞家への道を歩ませる結果につながった。後に当の関口さんは、集団就職に関わる連日の新聞の見出しが脳裏にあって、いつか親元を離れて都会で暮らす少年少女たちを励まそうと歌詞づくりへの気持を温めていたこともあって、わりあい容易に一晩の徹夜であの詞がまとまったと述懐している。
 投稿入選の1年後に「ああ上野駅」は早くもレコーディングされ、歌手の井沢八郎さんが歌いメディアを通じて公開が始まると全国的に大きな反響の連鎖を呼び、関口さんは作詞家になる前の“素人”のうちに大ヒットを飛ばしてしまった。当の関口さんは、レコードの発売から間もなくして勤め先の銀行を退社して26歳の時に作詞家の道を歩み始めた。しかし、生涯に約250ほどの作品を生んだものの、「ああ上野駅」を超えるような詩づくりには巡り会うこともなく2012(平24)年8月6日に肺炎で他界している。享年72歳であった。
画像                                            作詞家関口義明氏
画像 2002(平14)年3月31日に、長年にわたって別刷りで発刊されてきた朝日新聞の「日曜版」が最終回(版)を迎えた。その日曜版に“駅にさそわれ”と題したコラムが連載されてきたが、その最終回に取り上げられていたのが「ああ上野駅」だった。今から半世紀以上も前の歌ながら、カラオケの得意曲とする人も多く、口ずさんだり聞くたびに郷愁への新たな感覚を呼び起こさせられる人も多いと聞く。
 “駅にさそわれ”の最終回に取り上げられた「ああ上野駅」を作詞した作詞家・関口義明さんに関しては前に触れたが、 重複をご容赦願って以下にそのコラム欄に触れてみる。
~ 「作詞家の関口義明さん(62歳…当時)に会いに行った。“この歌に縛られ続けて40年、ですか…”。自宅の応接間で、関口さんは冗談めかした。山田花袋の「田舎教師」の舞台・埼玉県羽生市郊外の自宅、利根川沿いの畑に住宅が無原則に建ち始めている。
 「ああ上野駅」を作ったのは、関口さん22歳の時だった。米作農家の長男に生まれた関口さんは書くことがことのほか好きで、高校生の頃は川柳や一口コントの投稿マニアだった。高校を卒業して地方銀行に勤め、歌謡曲の作詞にこり始めた。そのころ、農村向け雑誌「家の光」が田園ソングを募集していた。賞金3万円と、一流歌手がラジオ・テレビで歌う、とあった。失恋女性が上野駅を後に故郷へ帰る歌を作ろう、と連日上野駅へ通った。が、言葉が見つからない。“四日目でした。帰りの電車で、網棚の新聞を見たんです”。その夕刊には、集団就職の話が載っていた。“これだ、地方の若者の応援歌だ、と決めました”。それまでの苦吟が嘘のように、歌詞がスラスラッと、一気に湧いてきた。
 1964年3月、青森県出身の新人歌手・井沢八郎の張りのある歌声がラジオから流れると、その感動の反響が殺到した。1953年から運転が始まった集団就職列車、東京オリンピック(1964)のこの年最盛期を迎えていた。北の34道県から7万8千人の「金の卵」たちが、都会へと向かった。就職の季節になると、テレビや新聞のニュースは、ボストンバッグや柳ごおりを抱えて上野駅に降り立つ中卒者の姿を流した。白線入りの学帽を目深にかぶった少年たちは、悲しそうに見えた。
 上野駅は、今年(脚注・2002年)2月に改修工事が終わって、暗くて雑然としていたコンコースは明るく一変した。内壁を飾っていた東北各地の酒の看板はマルチビジョンに変わり、大写しのタレントが何やら叫んでいる。1975年3月に集団就職列車は廃止、中卒者たちが降り、東京の土産を携えて戻っていった北国へのホームは、櫛の歯が欠けるように消えた。19・20番線は新幹線ホームとして地下に移され、集団就職列車の専用ホームの18番線も、在来線特急の減少で1999年に廃止された。
 新装なった構内で、しばらく人々の流れを眺めていた。コンコースの大時計はいつしか、素っ気ないデジタルになった。この駅独特の人間くさいにおいを、塗り立ての明るい壁面が消す。歌心には無縁だけれど、すっかり終着駅のにおいも消えたこの駅からあのような歌はもう生まれない、そんな確信めいた気がした。
 ヒットの2年後、関口さんは銀行を辞め、作詞家の道を選んだ。売れなかった。あの歌のイメージが強すぎた。アルバイトをしながらの低迷が続く。プロとして独立できたのは、昭和40年代前半のカラオケブームだった。有名歌手たちに歌い継がれ、家族を養える印税が入ってきた。宿命かもしれない。ただ、あの歌が“一世一代のヒット”などと書かれると、つらい。仕事に詰まると、上野駅へ足が向く。ふらつくだけで落ち着く。そして、次なる大ヒットをもう一度“スラスラッ”と作ってみたい、といつも思う。」 ~
 それから時を経て、どんなに上野駅が変わろうとも、あの集団就職列車に揺られて着いた多くの若者たちのように、作詞家の関口さんにとっての“上野駅”は何時までもあの日の上野駅であった。近代化へ装いを変化させてきた上野駅、人々の心に残るその原点は今も地方の若者たちへの応援歌でもある「ああ上野駅」に生き続ける。
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                        集団就職列車で上野駅に降り立った若者たち
画像 かつて地方から集団就職列車で上京した若者たちを元気づけた「ああ上野駅」の大ヒットから40年、この歌を作詞した関口さんはもう一つの金の卵世代への詩(後述)を作っている。2003(平15)年7月に、関係者の努力で上野駅前に「ああ上野駅」の歌碑が建ち、その除幕式の直後に関口さんの元に北海道出身で当時の集団就職組の60代の男性が、当時工場で右手の指を失いながら今日まで精一杯生きてこられたことを、遠路わざわざ伝えに来た。関口さんは、「ああ上野駅」を作詞した当時に想いを馳せ、その後の金の卵たちに思いを巡らし、「ああ上野駅いつまでも」を作詞したという。「風に呼ばれて思い出に/逢いに来たんだ歌碑の前/あれから何年過ぎたろか… 」(作詞・関口義明、作曲・齊藤博 花村一成)。熊谷市出身の歌手・星 次郎が歌っている。
画像 また、その頃、関口さんは金の卵世代の人たちの年老いた親御さんたちを思って、ある一つの詩を書いている。関口さんが一緒に暮らす実母(当時86歳)を思っての、「お母さん」(作詞・関口義明、作曲・花笠薫、歌・金田たつえ)である。少し前から母が、関口さんの顔を見つめながら「どなたですか…」と問う。痴呆の症状が見られ始めた、その母との日頃の何気ないやりとりを素直に詩にした。それは、「どなたですかと/他人のように/わたしを見上げて/聞く母の/笑顔は昔と/変わらぬものを… 」で始まる。決まりきった話しかしない母を関口さんは、“うるさい”と思うことが多かった。何故に、もっと優しくできなかったのかと、自責の気持ちで一杯だった情けない自分を振り返った。その一方で関口さんは、“高齢化”とはこういうことなんだ、と分かったという。関口さんは、そうした悩みを抱える人たちや、たまの帰りを楽しみに故郷で待つ集団就職世代の人たちの年老いた親御さんたちを思って、共に頑張っていこう と書いた詩 が「お母さん」であった。

画像 日本が高度成への道を進む中、戦後復興の人手不足を担って地方から集団就職列車で上京して来た少年少女たちが右も左も分からずに希望と不安の心境で降り立った上野駅18番線ホーム、その少年少女たちの思い出が一杯に詰まったホームが廃止となった1999(平11)年頃から「ああ上野駅」を作詞した関口義明さんのもとに、歌碑を建てたらどうかという声が寄せられ始めたという。
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                         JR上野駅広小路口に建つああ上野駅の歌碑
 その話を聞き及んだ関口さんの友人(会社社長深沢寿一、当時62歳)が碑の建立を提案し、十数人の有志が集って2002(平14)年8月に歌碑建立委員会(会長・ファイティング原田氏)を結成し、ホームページも立ち上げて本格的に寄付金の募集を始め、ほぼ約一千万円の建立費用の目標に達したという。
 歌碑(約2.5㍍高・1.5㍍幅)は、集団就職で上京した学生服姿の少年少女たちが蒸気機関車を傍らに降り立ったホームを歩む当時の写真を素に刻まれたレリーフが鉄と合金でかたどられた中央に嵌め込まれ、その手前に~どこかに故郷の/香りを乗せて~とはじまる「ああ上野駅」の歌詞全文と歌碑建立の由来を刻んだ碑文(ステンレス製板)が置かれており、歌碑は2003(平15)年7月6日に完成・除幕式を迎えている。
画像                                           〈 JR斎藤祐司上野駅長
 かつての集団就職列車はすでに遠い彼方へ去り、集団就職で若者たちが東京に第一歩を踏みしめた上野駅18番線ホームも、その姿はない。首都・東京のターミナルの中で殊の外個性的と言われてきた上野駅は、2002年の大幅な改修・リニューアルにより21世紀型の斬新な駅に変身した。かつては北海道や東北方面からの集団就職の若者たちや出稼ぎの労働者で溢れ北の玄関口と呼ばれていた上野駅 、現在は利用客層が一変している。2016(平28)年7月には上野公園の国立西洋美術館が世界遺産に登録され、翌年の6月には上野動物園でジャイアントパンダに子どもの“シャンシャン”が生まれて連日長蛇の列が続く。
 また、近隣のアメ横商店街はインバウンド全盛とあって外国人観光客で溢れる。「今、上野駅は、かつての終着駅のイメージから脱却し、多方面に向けた通過駅としてのイメージが定着しつつあり、観光地上野の発着駅ともなって非常に元気だ」と、斎藤裕司・上野駅長は同駅の現状に胸を張る。 (終)

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