鉄道とミステリーの現場

          鉄道ミステリー現場
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                          ・・・ 東京駅から幕が開くミステリー 昔日の東京駅 ・・・

画像 AIやITに代表される近代化社会の昨今に至る過程の中で、鉄道描写の白眉(…国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった…)とも言われた小説「雪国」(川端康成)の如くに、情緒性に満ち、精彩を放つ鉄道を活写した小説がめっきり少なくなってきたと言われて久しい。当然に、社会生活が向上していく世情の下ではその影響もやむを得ないところではあろう。そうした最中にあって今、鉄道を題材として大繁盛を遂げているのが、小説家・推理作家の西村京太郎を頂点とする鉄道推理小説ではないだろうか。今も、トラベルミステリーの第一人者として新刊の刊行を精力的に続けている西村京太郎氏、同氏の鉄道ミステリー第一作目となったのは1978(昭53)年に刊行された「寝台特急殺人事件」である。この西村京太郎氏の代名詞でもあるトラベルミステリーは、1957(昭32)年に後に“社会派推理小説”と呼ばれるようになった新しい文学の領域を携え颯爽と登場した松本清張のミステリー「点と線」の系譜としての流れを汲むものであろう。

画像 終戦から11年、“もはや戦後ではない”と1956(昭31)年7月17日に出された「経済白書」が胸を張って“戦後”の終了を告げたように、日本は技術革新とともに高度成長期を迎えて大都市に集中する人口の波は鉄道輸送を大きく前進させた。
 画像 松本清張19091992) 〉
 そんな最中の1957(昭32)年、後の社会派推理作家として確固たる地歩を築く契機となった松本清張の長編処女作「点と線」(1957.2~58.1まで雑誌「旅」に連載)の登場は、推理小説界に“社会派ミステリー”という新風を吹き込んで空前の推理小説ブームを巻き起こしていた。
 同時に、この後に続く松本清張の昭和30年代を代表する新機軸の推理小説は、鉄道に関しても数多の“ミステリーの現場”を生んでいった。 いわゆるトラベルミステリーのパイオニア的存在の「点と線」、そのミステリーの現場は東京駅から幕が開くのである。

画像 鉄道に絡んで展開される推理小説の中で、ミステリーの現場としてつとに知られている有名な現場は「点と線」に描かれた東京駅であろう。
 ・・・官庁の省内汚職の摘発が迫る中で、××省部長の失脚を防ぐために省出入りの機械工具商により同汚職の内情に深く係わる同省課長補佐が九州博多湾に面した香椎の海岸で心中に偽装されて謀殺される。この××省汚職事件の重要参考人であった同省課長補佐の心中に疑いを抱いた警視庁の捜査が始まり、偽装心中へのトリックのプロセスがすでに東京駅に用意されていたことが突き止められる。
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                            〈 「点と線」…東京駅13番ホーム  
 東京駅の15番線から出る特急列車に乗る男女に、さも深い関係にあるかのような振る舞いを見せて、その男女を目撃させるために犯人(機械工具商)により犯人馴染みの人物が同13番線ホームに用意される。その東京駅13番線ホームからは、その間にひっきりなしに列車が行き交い交錯する2本の線路が介在して向かいの15番線ホームを見通すことはできないものの、4分間に限り見通せる時空が存在すると言うのである。“あれは、九州の博多行きの特急だよ。「あさかぜ号」だ”と、機械工具商は目撃させる人物にそう教えた。“おや!、あれはお時さん(偽装心中で課長補佐とともに殺害された機械工具商がよく使う店の女中)じゃないか?”、機械工具商は指差す方向に目撃者の視線を向けさせた。この4分間という空隙は、全くの偶然であったのか、それとも作為的に用意(利用)されたものなのか、「点と線」の事件解決への分岐点ともなった。
 また、「黄色い風土」(松本清張)では、週刊雑誌の記者が取材で乗った熱海行きの車内から、東京駅のホームに一組の奇妙な新婚夫婦を認めることから物語は始まる。新婚カップルで華やぐ、新婚列車の異名を持つ準急「いでゆ」が発車待ちをしていた東京駅のホームから、記者は熱海へ向かった。熱海の一流ホテルで、評論家との面会を待つ記者の部屋に突然に“洋服を持ってきました”と伝える見知らぬ青年が入ってきた。ルームナンバーの431を481と間違えたのか…。翌日、431号室に宿泊していた新婚夫婦の夫が自殺の名所として知られる錦ヶ浦で投身したとの報が入った。平凡な自殺として処理されたが、前後の状況に疑問を抱いていた記者は同僚の協力得て事件として捜査を始めた。このように、昭和30年代の鉄道(国鉄)と清張の黄金時代が交叉する接線は、日本の中央停車場・東京駅に存在していたのだった。
画像                      昭和30年代の国鉄香椎線香椎駅
 話題は変わるが、「点と線」の中で殺人事件発生(偽装心中)の発端となったミステリーの現場である香椎海岸に関連して、今も妙に忘れられない記憶の襞に挟まった鉄道駅がある。九州の博多湾に面した、まだ海岸部の埋め立てが進む前の開発の鍬が入らない福岡市東区にあった古来からの響きを思わせる名称の駅で、駅を出て海側に進むと香椎海岸までは徒歩で約10~15分ほどのところにあった旧国鉄香椎線の香椎駅と西日本鉄道(西鉄)貝塚線の西鉄香椎駅である。今でこそ、JR九州の鹿児島本線と香椎線、JR貨物の博多臨港線が発着する、1日に13万人近い人たちが利用する副都心福岡市に位置する駅ではある。
 ・・・情死と見られる事件が発生した当夜の9時半頃、博多湾を見渡す海岸の香椎浜で情死した男女ではないかと思われる二人連れが9時24分着の上り列車 から国鉄香椎駅に降りたところを、同駅前の果物屋の店主が目撃していた。一方で、西鉄香椎駅で電車を降りた会社員は、目の前を見知らぬ男女の一組が足早に追い抜いていったという・・・。この博多駅に近い“香椎”という駅の名は、「点と線」における事件発生のプロローグ導入部分のミステリアスに富んだ鉄道駅として、今も記憶の片隅に色濃く残る。

画像 砂の器(松本清張・1960.5~61.4まで読売新聞連載)もまた、無機質な鉄道の旧国鉄「蒲田操車場」(現・大田運輸区、前身は蒲田電車区)がミステリー幕開けの現場であった。
 人間の生に宿る宿命と哀しみを深く鋭く描いた「砂の器」は、時代の光と闇に切り込んだ人間ドラマである。
画像 ・・・ 有力政治家の娘を恋人に持つ新進の天才ピアニストの元に、ある日突飛に初老の男が訪ねてきた。国電蒲田駅(京浜東北線)近くの場末のトリスバーで、ハイボールを飲んでいた客の男二人が店を出た。不安や寂寥が纏わり付くような空隙が続く、夜の裏道。そこを抜けた先に、薄暗く瞬く構内灯に蒲田操車場が鈍く浮かび上がっていた。操車場の左手に沿う夜道を、連れ立って歩いていた二人はその先で曲がった。この二人連れを、流しのギター弾きが目撃している。この直後に、二人の運命は天と地に転じ、一方(ピアニスト)は殺人者に、一方(初老の男)は被害者となった。
画像 旧国鉄蒲田操車場
 夜の操車場で、初老の男の扼殺死体が発見された。ピアニストが胸の奥深くに封印してきた“過去”(ハンセン病を煩う父親の存在)を知る訪ねてきた初老の男に、栄光への道にただ一つ宿る“過去の露見”への恐怖心が動機であった。「カメダは、今も相変わらずでしょうね?」…当夜トリスバーで二人の男が交わした東北訛りの言葉を手掛かりに、警視庁の二人の刑事による犯人捜査の聞き込みが東急電鉄の多摩川線と池上線が集まる私鉄沿線からスタートした。平成に入って蒲田駅周辺は、大小のビル群が林立する大都市と化して、「砂の器」が刊行された昭和30年代の面影は微塵も感じることはできない。ただ、駅の北側を流れる川と南側のかつて国鉄蒲田操車場が所在した区域(現・大田運輸区の電車基地が所在)だけは昭和30年代当時の風情が残り、今も「砂の器」を偲ぶ縁としての風景を留めてはいる。
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                    下山国鉄総裁の轢死体が発見された検証現場 国鉄常磐線
画像 日本の黒い霧(松本清張・1960(昭35)年「文藝春秋」連載)では、米軍占領下(対日講和・日米安全保障条約及び日米行政協定の発効により終戦(1945.8.15)を迎え、以来日本は1952年4月28日までの6年8カ月にわたってGHQ(連合軍総司令部)の支配下に置かれた)の日本で頻発した不可解な未解決の事件を追っている。
画像 〈 「三鷹事件」 ・ 国鉄中央線 1949.7.15  
画像 〈 「松川事件」 ・ 国鉄東北線 1949.8.17
 その中の一つに、未解決のまま迷宮入りとなった下山定則日本国有鉄道初代総裁の轢死事件がある。この事件の背景には、官業として77年の歴史を持った国鉄はマッカーサー書簡により機構改革が断行され、1949(昭24)年6月1日に運輸省から独立して公共企業体「日本国有鉄道」として新発足したが、この新発足した体制に対してドッジ政策は予算の大幅削減と人員整理による合理化を強く要請した。この要請に対する当局(国鉄)の人員整理の強行は、労働組合との間に激しい対立を生んで“行政整理”の嵐が吹き荒れた。そんな最中の1949年7月6日、“最大の謎”として今でも真相が判明していない「下山事件」が起きた。当時の国鉄の大幅人員整理(削減)が敢行されようとしていた最中に、下山定則初代国鉄総裁が行方不明となり、翌日の未明に東京足立区内の国鉄常磐線の線路上で轢死体となって発見される事件が発生したのだ。しかし、現場検証によるも自殺か他殺かも見極められなかった不可解な謎の事件として未解決のまま捜査は中途半端で終わってしまった。
 事件の背景には、先に触れたように大規模な人員整理(首切り)断行の途上にあった国鉄の経営を巡る政府と労組の対立が在った。こうした真相の判明しないミステリアスな一連の事件が、謎を秘めたまま占領軍支配下で連発した。1949(昭24)年7月15日、国鉄中央線三鷹電車区構内に留置されていた電車(7両編成)が無人のまま突然に動き出して約70km/hで暴走し、車止めを突破して脱線転覆し駅前の交番と民家を破壊して6人が死亡・19人が負傷した「三鷹事件」が起きた。また同8月17日には、国鉄東北本線松川~金谷川間で運転中の上り旅客列車(機関車+客車12両)の機関車と客車3両が脱線転覆し、3人が死亡・9人が負傷した「松川事件」(レールの継ぎ目板が何者かに外されていた)が起き、大きな社会問題を引き起こした。現在も不明のままに差し置かれているこれらの事件は、新発足したばかりの国鉄にとっては試練の連鎖となり、多くのミステリーな鉄道の現場を生んでいった。

画像 それまでのミステリー小説の在り方を根底から変えた清張小説の登場で、 鉄道のミステリー現場を数多く際立たせた昭和30年代当時の日本は、“もはや戦後ではない”という経済白書の宣言とともに貪欲さを備えた社会向上の時代だった。当世のクルマ社会の到来を間近に控えてはいたものの、旅や物流の主役はまだまだ鉄道であり国鉄であった。1958(昭33)年に“ビジネス特急”の名称が生まれ、初の電車特急「こだま」の誕生は東京~大阪間を6時間半で結んだが、当時はまだ新幹線もなく、戦後の就航間もない航空機とて桁外れに高額であったため、一般に長距離移動は急行列車などによる長時間移動が当たり前であった。それ故、必然的に就寝中に目的地へ移動できる夜行列車が、遠距離移動の主流として盛んに利用された。
画像 さりとて、急行の夜行列車といえども、昭和30年代当時は普通客車を連ねた列車が大半であった。天井で扇風機が回り、直立した背もたれが並ぶ薄汚れた狭い座席に身を置いて、駅弁を食べながら足を伸ばせずに無理やり目を瞑り、堅い座席に拘束され揺られ続けて窓が明るくなるまでひたすら我慢を強いられた苦行の長旅とも言えた。
 そんな当たり前ともいえた耐え忍ぶ我慢の時間を救ってくれたのが、ほの暗い揺れる車内で懸命に活字を追った時代と共生し国民に愛された“清張ミステリー”ではあった。 (終) 

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