蒸気機関車と男たち(機関士・機関助士)

蒸 気 機 関 車 と 男 た ち (機関士・機関助士) …その1
 鉄道といえば、全国津々浦々の鉄路をくまなく蒸気機関車の牽く列車が席巻していた戦前の印象が強く、蒸気機関車の存在が日本の鉄路の姿を象徴的に顕していたと言っても過言ではないようだ。左腕に、“機関士”の黒い三文字を浮き上がらせた白い腕章を巻く機関士の凛々しい勇姿は当時、幅広い世代にとって憧れ的存在だった。されど、蒸気機関車の運転は、外見の頼もしい姿や旅情を誘う詩情性とは全く裏腹に、凄まじく激しい振動や動揺、夏期は高温・冬期は厳寒にさらされ、煤煙と灼熱に包まれた作業環境の狭い運転室内での乗務は、想像を超える実に厳しいものであった。蒸気機関車の運転にあたっては、乗務員の体力と神経の消耗や負担は極めて大きく、その疲労度は電気やディーゼルの機関車とは比較にすらならないほどの大きいものであった。日本の国内輸送の大半が鉄道に課せられていた戦前から終戦直後にかけては、蒸気機関車牽引の列車が全盛の頃と相俟って、輸送に携わる機関車乗務員の仕事は過酷さの上に乗務時間が長かったこともあって、停年(定年)を機関士を最後に迎えた男たちの残りの人生寿命は5年前後であったとされる事実も云々されていた。まさしくこれは、蒸気機関車の運転業務の厳しさを物語る証のようなものだった。しかし一方で、機関士自らの持てる技量と力量が従順なほどに発揮することができ、機関車との一体感を創り出す醍醐味を味わうことができる蒸気機関車の運転は、たとえ辛く過酷であってもやり甲斐を感じることができる仕事だ、と経験者の大半が口を揃えるところでもあったのだ。

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                     過ぎ去りし日の遠い郷愁日豊本線を行く 1973(昭和48)年
 ここで、表面的ではあるが、蒸気機関車運転の一端を概観してみる。
① 出区(列車組成前)…シリンダー予熱を行って効率的な蒸気圧力の使用による機関車性能の発揮に備える。その方法は、ブレーキを施した後にバイパス弁とシリンダー排水弁を閉じ、逆転機を前進または後進フルギアとして加減弁を小開する。頃合い(予熱状態)を見て加減弁を閉じ、バイパス弁とシリンダー排水弁を開き復水を排除する。
② 起動(列車組成後)…バイパス弁とシリンダー排水弁を閉じ、逆転機を前進(後進)フルギア位置として加減弁を慎重に引き上げ(開く)ながら起動を開始し、動輪が1~1回転半した頃合いを見計らって逆転機を少し多目に引き上げた後、牽引重量と加速状態に応じ加減弁を順次引き上げるとともに、逆転機を適切な位置に引き上げ(蒸気室内におけるピストン弁の作動(開閉)割合を変化させる)ながら加速制御を行いつつ、最終的に加減弁を満開(開放)にする。加減弁と逆転機との相関制御は、列車種別(客・貨)、牽引重量、線路状況(勾配・曲線)、天候、機関車の個性や状態などを勘案・塩梅しながら行う。
③ 力行(給気)運転…原則として加減弁を満開にし、逆転機のカットオフ操作(ピストン弁の締切率制御)によりシリンダーの出力を加減して速度制御を行う。逆転機の制御は、ボイラー性能に見合う連続運転可能な速度とカットオフの両者の合計が80~90(速度+カットオフ=80~90・現場用語で“コンスタント”と呼ぶ)とされていることから、これを標準(最小カットオフは15%を標準)として運転制御が行われる。
④ 力行から惰行(絶気)運転へ移行…逆転機を中央(ミッド)に引き上げた後に加減弁を徐々に閉じ、シリンダー圧力が5~6㎏/c㎡(現在の法定圧力表示の単位は「kPa:キロパスカル」で、1㎏/c㎡は98kPaに相当。以下旧の表示による)に降下したところでバイパス弁とシリンダー排水弁を開いて逆転機をフルギアとする。
⑤ 惰行から力行運転(再力行)に移行…逆転機を中央(ミッド)近くに引き上げた後に加減弁を小開し、バイパス弁とシリンダー排水弁を閉じる。列車全体が引っ張り状態(全連結器間を緊張状態にして衝動防止)になる時機を見定め、再力行に移る時の速度と牽引重量に応じて加減弁の開き加減を調節しながら逆転機を引き上げていく。
 
 蒸気機関車の運転にあたり最も注意を払うべきは空転(機関車の牽引力(回転力)がレール面と動輪との間の粘着力(動輪上重量×粘着係数)を上回ったときに発生)で、蒸気機関車の空転が他の動力車(電気機関車、ディーゼル機関車、電車)と異なってより深刻なのは、動力源である蒸気圧力を作り出す火室内の火床が損傷(火床撹乱~燃焼する石炭層が載る火床が薄くなったり穴が開いたりして燃焼が損なわれる)し、石炭の燃焼火力が損なわれる事態を引き起こすからだ。火室内の石炭燃焼に必要な通風(空気)は火床下部から採り入れており、走行部のシリンダーピストンから煙室内に放出する排蒸気が煙突から外気へ排出される勢いでボイラー内の燃焼ガスを強制的に吸引して火室内の通風を図る蒸気機関車独特の構造のため、空転が起きるとボイラー内の通風が過度(シリンダー排蒸気量が急増して燃焼ガスの吸引力が過大になる)となって火床からの火室内への空気の流入(採り入れ)が一気に増して過大となった通風力が火床を乱すことにつながるのである。その結果、火床撹乱により燃焼効率の低下を招いて動力源の蒸気圧力発生の低下は避けられず、前途の運転に大きな影響を及ぼしかねない。ときには、運転の継続が危ぶまれる状況に追い込まれる。それ故、蒸気機関車の運転にあたっては、空転防止のために極力牽引力の変化を少なくして加速させることが鉄則であると同時に、蒸機列車運転の要諦となっている。
 はからずも空転が発生した場合は、運転開始直後であれば加減弁を絞って(戻す)対応するが、走行中に加減弁を絞るとシリンダーへの蒸気供給量が減ってその後の運転継続に影響を与える(牽引力(加速力)の減少による速度低下等で体勢の立て直しが困難になる)ため、早期の砂撒きによる対処(粘着係数を増す)が肝要である。空転の状況(撤砂でも空転が止まないときや空転が極度に激しいとき等、特に蒸気機関車は全ての動輪が連結棒=サイドロッドで結ばれているために全軸空転となる)によっては、砂撒きとともに素早く加減弁を締め切ると同時に、火床の撹乱防止のため焚口戸を開いて別途に火室内の通風路を確保(機関助士が行う)して火床からの過大な通気を緩和する。空転が収まったときには、空転の再発防止に注意を払いながらその時の諸状況(線路状態、速度、牽引重量等)を考慮・勘案しながら慎重な加減弁と逆転機の操作により再力行を行うことになる。
画像 終盤間近い蒸気機関車の牙城新見機関区国鉄伯備線1969(昭和44)年10月
 蒸気機関車の運転に関し、乗務員の運転技能の優劣を測る尺度の一つに、石炭消費量(一仕業当たり)を如何に少なくして運転を行ったかという数値評価法(仕業の石炭消費量を牽引換算車両キロ(列車重量×列車キロ)で除した換算車両キロ当たり石炭消費量の数値で、標準値に対する同数値の多少が成績の目安)があった。その蒸気機関車の動力(蒸気圧力)をつくる石炭も、かつて不足の危機に見舞われたことがある。敗戦で迎えた1945(昭和20)年8月15日の終戦、戦災で日本の経済はどん底に落ち込み、戦時中から続いていたあらゆる生活物資の不足・欠乏は極みに達していた。動力車のうち蒸気機関車による列車運転が主体だった当時の国鉄(1946(昭和21)年の電気機関車保有両数320両に対し蒸気機関車は5958両)においては、終戦直後から2年余りほど続いた動力の燃料である石炭の極度な不足や質の低下(熱量の少ない粗悪炭)による石炭事情の悪化で輸送は致命的な打撃を受け、この石炭不足は大幅な列車運転の削減や休止を招いた。しかも、戦前に比べ旅客・貨物ともに輸送量が倍増していたことから列車の運転キロの半減は、輸送に危機的な混乱状況をもたらした。そんな中で国鉄は、戦災で荒廃した車両や設備を駆使しながら生活や産業あるいは復興などの物資や資材の緊急輸送に立ち向かい、戦争で荒廃した国土の復興に対し大きな役割を担ったのである。そのような状況下で与えられた輸送の使命を果たすため、混乱する生活がもたらした食糧難の中で疲弊しきっていた心身に鞭打って、不足や低質化する石炭を焚いて整備もままならない蒸気機関車を駆り、懸命に輸送に邁進し働いていたのが、ほかならぬ機関士と機関助士の男たちであった。その男たちはまた、敗戦により日本国民が虚脱状態に置かれた中にあっても、国民が受けた悪夢を払うが如くに終戦の日の8月15日(1945)もいつもと変わらぬ汽笛を全国の焦土に響かせていたのである。“汽車が動いている”という安堵の声は、全国のいたるところで上がったと言われている。
 輸送の大半が鉄道に委ねられていた終戦前後、蒸気機関車牽引の列車が主体だった時代にあっては、輸送需要に応えるため蒸気機関車には常に性能一杯の働き(牽引重量と速度)が求められ、それを果たすべく酷使の最中にあった蒸気機関車運転の輸送の世界は、まさに男たち・機関士と機関助士にとっての“戦場”そのものであった。

蒸 気 機 関 車 と 男 た ち (機関士・機関助士) …その2
 かつての蒸気機関車の運転は、機関士と機関助士との共同・協調による過酷で厳しい乗務作業によって行われていた。ただ、蒸気機関車の全廃(1975(昭和50).12)後、観光やイベント列車の牽引用として本線の復活運転を果たした蒸気機関車(現在の在籍稼働機・9形式16両)の運転に関しては、私鉄を除きJR化後の現在では“機関士”・“機関助士”という名称の職名は正式にはなく、「運転士」の職名に統一されている。ただ、運転士一人では運転できないのが蒸気機関車の構造上における本質であるため、乗務に当たっての“運転”と“助士”の役割分担(ともに職務の厳しさに遜色はない)は、運転日ごとに役割担当を替えて行われているのが一般的のようだ。
 ここで機関助士の乗務作業(仕事)の概要を見てみる。機関助士の役目は、機関士を補佐して機関車(列車)の安定した運転(常に機関車が十分な出力を発揮できる状態の保持)に寄与するのが職務である。その仕事の内容は多岐にわたり、作業に対する姿勢の如何は列車の安定した運行確保の成否をも握る。運転中に機関助士が行う仕事(作業)には、ボイラーの焚火(投炭)作業、ブロワー操作(石炭の燃焼促進)、ボイラー缶水の監視・補給(給水ポンプの運転や注水器の操作)、重油併燃操作、火床整理、信号確認・喚呼、汽笛吹鳴、空転時の対応(焚き口戸の開放)、通票の授受(通過列車等)、暖房制御(客車)、給油(走行部)、石炭の掻き寄せ、水撒き操作(石炭、動輪タイヤ、灰箱、レールの砂洗い、運転室内)等々がある。
 蒸気機関車は走るパワーを自ら作り出さなければならず、動力源である蒸気圧力は機関助士が行うボイラーの焚火(投炭)作業によって作り出される。その蒸気発生量、すなわち機関車出力は機関助士の技量の如何によって大きく左右されるといわれ、投炭技量の巧拙が影響を及ぼす蒸気圧力の確保次第によっては、機関士による絶妙な加減弁と逆転機の操作を以てしてもときには列車の正常な運行が阻害されてしまう結果を招く。そうしたときの無理焚き(石炭の無謀投与)は、かえって不完全燃焼を一層煽る状況に至ってボイラー圧力は下がる一方となり、最早定時運転など望めなくなる。
画像                                       [ 投 炭
 本線運転における焚火(投炭)作業の概要は、次のようである。出発前においては、安全弁を噴かせないよう投炭によりボイラー圧力を規定値一杯に保ち、ボイラー水を水面計により確認して十分に確保(8分目の保持を標準)しておく。発車後は、消費される蒸気圧力を確保するため投炭を行い、給水ポンプを作動させて缶水の補給・保持に努める。
 また、給気(力行)運転の連続や上り勾配区間の運転などのときには蒸気圧力と缶水の消費が間断なく続くため、ボイラー圧力計と水面計に注意を払いながら投炭と缶水の補給に努める。このように、給気運転中の機関助士には手を休める暇もない。絶気(惰行)運転に移行したときは、給水ポンプを停止させる(惰行運転時には排蒸気が途絶え給水加熱器が機能しなくなるため給水ポンプの使用は給気運転中に限られ、それ以外での缶水の補給は注水器(インゼクター)を使用する)とともにブロワー弁を開け火室内の通気を確保する。本線運転における焚火(投炭)作業は、安定したボイラー圧力が保持され、ボイラーの水位もほとんど変動のない、火室の中が眩しいほどに白色の輝きを放ち続ける状態が最高とされている。されど、機関車自体の個性(特性)の違いや整備状態の良し悪し、使用する石炭の質などが相関し、そうそう同じ状況の焚火(投炭)作業など望めないのが実態だ。そうした不安定極まりない中にあっても、ほぼ安定した焚火(投炭)作業が行えるようになるにはそれ相応の技量の練磨と経験が必要とされるのである。それほどに、旅客列車であれ貨物列車であれ所定の列車を牽いて所定の時間で走らせるためには、乗務員自らの手で作り出さなければならない蒸気機関車の動力源である蒸気圧力の安定した確保は絶対必要条件であり、その確保の如何は一にも二にも機関助士の焚火(投炭)作業における技術・技量の優劣がものを言うのである。蒸機列車が全盛(主体)であった頃には、きつい上り勾配や重量列車などの運転にあたって見習の機関助士や経験の浅い若い機関助士と乗務に就いた機関士は、機関助士の腕のほどを見て無理だと見抜くと、状況に応じて機関士自らが投炭作業を行って運転したというケースは語るに暇はなかったといわれる。
 また、機関助士に求められる職務(職責)の一つに、信号の確認と前方注視がある。機関助士も、列車の安全運転の確保を第一に乗務に携わる身としてそれは既成のことだが、蒸気機関車は本来の構造上から運転室は前方に突き出たボイラーの後位に位置しており、進路前方の視角がすこぶる狭く視認性に劣り、安全運転の上からも死角になりかねない。右方向への分岐箇所や曲線箇所などでは、前に突き出たボイラーに遮られて左側に位置する機関士席からの前方の進路は全く視認(注視)できない。それ故、機関助士といえども、機関士と同等の前方注視の義務が課せられているのは当然のことであり、信号の確認や進路前方の異常の有無の確認に当たっては機関士・機関助士ともに職務の上で隔たりはなく、前方の安全注視には相互間で連携を密にした共同の安全確認が不可欠だった。既述の如く、列車の安全運転を通じて乗客の生命・財産を預かる身として乗務に当たり機関助士が最も心掛けなければならないのは、機関士との緊密かつ綿密な連携であることは言を俟たないところであった。

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                   懸命に焚火(投炭)作業を行う機関助士 記録映画ある機関助士」 ]
 かつて国鉄の動力近代化計画(電化、ディーゼル化)が推し進められていた最中の1962(昭和37)年に、日本の旅客用蒸気機関車として最大級のC62形が牽引する急行旅客列車〈みちのく〉を国鉄常磐線水戸~上野間に追った記録映画・『ある機関助士』(製作・岩波映画)の中で、鉄路に生きてきた男たち(機関士・機関助士)が激震と噴煙の坩堝と化した狭い運転台で列車の遅延回復に挑み、終着の上野駅までに定時運転に戻す奮闘を繰り広げる壮絶な乗務の姿は、力走に力走を重ねる蒸気機関車とともに、誠に秀逸である。現在の観光やイベント等で走る蒸気機関車の運転では到底垣間見ることも叶わない、火焔と激しい振動が席巻する僅か5㎡ほどの狭い空間の仕事場(運転室)で、間断なく繰り広げられる機関士と機関助士の緊迫した乗務の姿がそこには在った。 (関連公開ブログ…「鉄路の肖像」2014.2.19)

蒸 気 機 関 車 と 男 た ち (機関士・機関助士) …その3
 戦前の黄金期、かつては輸送の現場で日夜の区別もなく日本中の旅客列車や貨物列車を牽いて懸命に走り続けた蒸気機関車は、先の敗戦(太平洋戦争)で日本の全土が焦土化し疲弊・荒廃の世相が支配する中の鉄路を気息延々となりながらも力走し、国鉄を中心として行われた国土の復興輸送に大きな役割を果たしたのであった。勿論そこには、終戦直後の極度の食料不足に耐え、石炭不足や粗悪炭に悩まされながら、資材が不足して整備もままならなかった満身創痍の蒸気機関車を駆って夜を日に継ぐ輸送に立ち向かった、全国の数多の機関士と機関助士たちの国鉄魂が息づいていたのであった。
 今から69年前の1945(昭和20)年8月28日、連合軍の敗戦国日本本土への上陸が始まり、同31日の連合軍最高総司令官マッカーサー元帥の来日とともに、同9月2日には東京湾上の米艦ミズリー号で降伏文書の調印が交わされて日本は連合軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれることとなった。これにより、日本の鉄道に対する政策と計画はGHQから出され、実際の輸送にあたっては第三鉄道輸送司令部からの指令を介して全国の主要駅に設置されたその下部組織であるRTO(鉄道輸送事務所)による指示に従って行われた。そして、占領下に置かれた宿命として日本の鉄道が受け入れなければならなかったのが、絶対最優先とされた占領軍による輸送列車の運転、すなわち“白帯車”と呼ばれた連合軍専用列車(進駐してきた連合国軍の日本国内移動の便宜を図るために運転された専用列車の総称)の運転だった。連合軍(進駐軍)専用列車は日本の各地で運行され、1952(昭和27)年4月28日の対日講和条約(日米安全保障条約、日米行政協定)の発効によって6年8カ月にわたった連合軍による占領状態が終わりを告げた後の1954(昭和29)年頃まで運転されていた。
 その連合軍専用列車は、戦時下の国鉄で優等列車の運転が差し控えられ、その用途が途絶えたままに留保の状態にあった寝台車や展望車、食堂車等の優等客車の大半と、二、三等客車の一部を連合軍輸送用として整備して供用(約900両)された列車で、従来の車体の帯が白色に塗られていたことから一般に“白帯車”と呼ばれた。その専用列車は、部隊輸送、要人輸送、傷病兵輸送、物資(軍需や生活)輸送および公務出張や休暇旅行等の輸送用として数多く運転された。専用列車には愛称名が付けられ、その中でも東京~博多間の「Dixie・Limited」(第1001・1002列車)、東京~門司間の「Allied・Limited」(第1005・1006列車)、上野~札幌間の「Yankee・Limited」(第1201・1202列車)は最も名の知れた専用列車だった。
 戦争の傷跡が人心にも国土にも深く残され、不安と希望が交錯する世相の中で始まった連合軍専用列車の運転は、戦災で荒廃した施設や車両、資材不足、石炭不足に加え、不安な生活に起因する労働能力低下の最中で行われた。この連合軍専用列車の運転に当たった列車乗務員もまた、敗戦による虚脱状態と生活不安の中にあって、直面する困難を乗り越えながら奮闘していたのであった。

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                      白帯の連合軍専用客車を連結して東海道本線を上る
 通常の連合軍専用列車の運転以外に、前記の「Dixie・Limited」「Allied・Limited」「Yankee・Limited」や中将クラスをはじめ高級将校クラスの特別臨時専用列車の運転に際しては、御召し列車以上の扱いによる運転と警護および警戒の通達が出され、機関士・機関助士ともに制服着用で指導員や御召し運転経験者といったベテランが充てられ、列車には副機関士・副機関助士、首席助役、ときには技工長の添乗まで義務付けられていた。また、停車駅においては、MPの警護や護衛まで就く物々しさであったという。勿論、発着時刻についても、秒単位での運転が求められて早遅着には厳しかったとされる。これら特別の専用列車の運転にあたっては、予め運行ダイヤは示されてはいたが、ときにはあってもないような状態で、RTOの気分次第などで先行する列車のことごとくを駅々に待避させて特急列車以上の運転を強いたことも再三あったという。また、東京へ向かう上り列車の場合には、連合軍側の都合で東京着の時間を調整するために途中の駅で2、3時間も停車させられることが頻繁にあったともいわれている。こうした気儘な運転を強いられ許さざるを得なかったのも、占領下の物言えぬ日本の立場や悲哀でもあったろうか。
 連合軍専用列車の運転を担当した機関士や機関助士もまた然りで、気儘な停車時間もときには数時間に及ぶこともあり、この間乗務員は列車を監視しなければならずに職場である機関車を離れることもできず、冬季はまだ由としても夏季は燃焼中のボイラーを前に長時間の待機は苦痛以外のなにものでもなかった。また冬季とて、当時の列車(客車)の暖房はほとんどが蒸気暖房であり、通常は5㎏/c㎡の蒸気圧を暖房管へ送気して各客車の暖房を行っていたが、特別の専用列車では通常より2~3㎏/c㎡も高い蒸気圧による送気を行わないと、直ちに高官から文句(暖房が弱い)が出たという。担当の列車重量が重く、しかも蒸気圧力の十分な確保が求められるような運転状況の時などでは、この高い送気圧力はボイラー水の消費を早めるとともにボイラー蒸気圧力の保持に追われることになり、特に機関助士にとっては過酷な乗務だったという。また、8㎏/c㎡もの高い圧力の送気による万一の故障に備え、予備のヒーターホース(客車間の暖房管を結ぶ)が機関助士席の前に用意されていた。
 これは連合軍専用列車ではないが、普通列車に乗務中、突然に黒人の米兵が機関車の運転室に乗り込んできて機関士の頭にピストルを突き付け、運転させろと迫られたことかあったという。機関士は、加減弁の操作は絶対にダメだと身振り手振りで必死に説得に努め、頑なに米兵の運転を拒み、ついには諦めさせて事なきを得たという事態も起きていた。このような兵士による示威的・威圧的行為のケースは他でも随所で見られたといわれ、占領下にあった敗戦国の日本に対する戦勝国の奢りの顕れではなかったろうか。とにかく、占領下の日本の鉄路で展開された連合軍の輸送は半ば強制的に押し付けられたかたち(命令)のものではあったにしろ、その輸送には諸々の艱難辛苦と逆境にもめげずに乗り越えてきた機関士・機関助士たちが見せた、日本男児としての意地と負けじ魂が息づいていたのではなかったろうか…。

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                      [ 火焔と寒風が渦巻くキャブ 函館本線映画雪の行路」) ]

蒸 気 機 関 車 と 男 た ち (機関士・機関助士) …エピローグ
 国鉄が、戦前から長年にわたって夢見てきた広軌高速鉄道の建設がようやく陽の目を見るに至り、1964(昭和39)年10月の開業を目標に東海道新幹線の建設工事が1959(昭和34)年4月に着手された。当時は、高度経済成長が招来した急激なモータリゼーションによる輸送構造の変化で、鉄道の輸送シェアが減少化するという世界的な鉄道斜陽化論が蔓延し、東海道新幹線建設の賛否両論が渦巻いていた最中のことであった。その1959年に答申され、その後に鋭意推進されていった国鉄の動力近代化計画(1975(昭和50)年度までの15年以内に主要幹線5000kmの電化および他路線のディーゼル化を行い、蒸機列車の運転を全廃する)が予定通りの完遂を見たのは1975(昭和50)年のことで、その年の12月14日には国鉄室蘭本線室蘭~岩見沢間を蒸気機関車牽引の国鉄最後の定期旅客列車が走り、また、その10日後の12月24日には国鉄夕張線夕張~追分間を最後の蒸気機関車が牽く貨物列車が運転された。この時を以て日本の蒸気機関車は、その103年にわたった歴史とともに使命を終え、本線上から消え去ったのである。

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                 [ 最後の蒸気機関車C57135牽引の定期旅客列車室蘭本線1975.12.14
 蒸気機関車の最大の短所は、機関車の出力性能を決めるボイラーの蒸気発生量が車両限界や許容軸重により制約を受けるために低く、加えてピストンの往復運動により駆動力を得ていることから、その運転(動力)効率(石炭の燃焼により発生するエネルギーに対して実際に牽引力として使用されるエネルギー比率)が10%以下と極めて低いことにある。このように、運転効率が低い蒸気機関車が技術革新の進む世界で1世紀を超え(103年)て使用されてきた過程には、近代車両登場との兼ね合いもあったが、そこには蒸気機関車の運転に常に情熱を傾け、蒸気機関車に郷愁を感じさせるような魅力を培ってきた歴代の機関士と機関助士たちが挑んできた飽くなき奮闘があったのである。
 文明開化の象徴として日本の鉄道創草期(1872(明治5)年)に登場した“陸蒸気”以来、103年にわたる歴史を日本の鉄路に刻んできた蒸気機関車。かつてその歴史に注ぎ込まれてきた男たち(機関士・機関助士)の伝統は、現在の各地の鉄路を観光列車やイベント列車を牽いて走る蒸気機関車の運転に、今も息づく。 (終)

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