下山事件の残像

画像                         《 初代国鉄総裁・下山定則氏
1949(昭和24)年7月5日朝、国鉄本社に向かう途中に立ち寄った東京・日本橋の三越百貨店本店に入った後、そのまま行方が分からなくなっていた初代国鉄総裁の下山定則氏(当時49)は、翌6日午前0時25分に東京都足立区五反野南町の国鉄常磐線と東武鉄道とが交差する常磐線五反野ガード下(現在の綾瀬付近)の線路上でバラバラに寸断された轢死体で発見された。
 この下山総裁の惨死事件は、大規模な人員整理(首切り)を巡り熾烈な葛藤の最中にあった当時の国鉄労使双方に大きな衝撃を与えるとともに、謎の下山事件として原因不明のままに歴史に埋もれるという、連合国軍占領下における日本の戦後史を語る上で一つのエポック・メーキングとなった。

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     《 下山国鉄総裁轢死現場・国鉄常磐線五反野ガード下 1949.7.6
下山事件が起きた1949年は、日本の時局が大きく転換した年であった。1月の総選挙では、共産党の躍進で日本の左派勢力が大きく前進し、アジア全体においても共産主義勢力がその基盤を高め、アジアを大きなうねりの如くに覆い始めていた。当然に、占領下に置く日本もこのままでは“赤化”してしまうと、米国が危惧を抱くのに時間を要しなかった。総選挙2カ月後の1949年3月、戦後(太平洋戦争)4年目を迎え敗戦によるインフレの昂進でどん底に喘ぐ日々が続く日本経済の再生を謳い、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は経済顧問としてジョセフ・ドッジ氏(デトロイト銀行頭取)を日本に派遣した。そして、いわゆるドッジ・ラインと称された政策(人員整理を主体に経済の合理化を目標とした経済安定九原則)を打ち出し、日本政府に対し予算の大幅削減と人員整理による合理化(その真意は国鉄労働組合等の弱体化を図り左派勢力(赤化)の押さえ込みにあったらしい)を強硬に要請した。その3カ月後の1949年5月31日、日本政府は国会において行政機関職員定員法を成立(第3次吉田内閣)させ、施行した。
 その直後の1949年6月1日、日本の鉄道創業以来官営として77年もの長い歴史を辿ってきた国鉄は、GHQが日本政府に送ったマッカーサー書簡による機構改革の断行によって、公共性を保ちながら企業性を追求し独立採算制を維持する新しい組織の公共企業体(Public Corporation)へ改組し、運輸省から分離独立して独立採算制を建前とする公共企業体「日本国有鉄道」へと移行した。この新体制の国鉄や官庁に対し政府は、戦災で壊滅状態に陥っていた民間企業に代わって雇用創出の吸収先として数少ない事業体であった国鉄が復員者や外地鉄道からの引揚者などを積極的に職場復帰させたことから膨れ上がっていた国鉄職員や、同様に膨張が著しかった官庁機関職員の人員整理に取り組んだのである。
 すなわち、行政機関職員定員法により政府は、国鉄については60万4243人(1949.3末現)の職員のうち9万5000人を整理し、1949年10月1日時点の職員数が50万6734人を超過しない方針を定めた。そして、職員9万5000人の解雇計画が、国の意向により下山総裁から1949年7月1日に国鉄労働組合(労組)へ通告されている。職員の人員整理に対しては、以前から異を唱えて国鉄当局に対抗してきた労働組合は、1949年2月に人員整理反対闘争に突入し、全国規模の展開を強めていたのであった。
 占領国軍の支配下にあって、人員整理の嵐が吹き荒れる中で労働組合との間に激しい対立を生んでいた国鉄当局は、頻発する違法ストや職員の処分問題等で騒然としていた。そうした国鉄の組織を揺さぶる嵐の中で、運輸次官だった下山定則氏が1949年6月1日に初代の公共企業体日本国有鉄道総裁に就任したのである。その下山総裁は、行方不明になる前日の7月4日に、国鉄職員3万700人の第一次解雇を発表している。

国鉄職員の第一次解雇が発表されたその2日後の1949年7月6日に、衝撃的な下山国鉄総裁の惨死事件が起きたのである。その直後に、政府や国鉄の内部では共産党による犯行説を示唆する動きが台頭し、新聞や世論は共産党への危機感を募らせていた。
 その下山総裁惨死の原因として自他殺を巡って混沌としている中で、副総裁の加賀山之雄氏が総裁代行(第2代総裁就任は1949.9.24)に就いている。そして、下山事件の余波が続く中で国鉄当局は、7月13日に6万3000人の第2次人員整理を職員に通告したのである。このドッジ政策に基づく国鉄当局の強行な人員整理は、労働組合との間に激しい対立を生んで、国鉄を舞台に“行政整理”の嵐が吹き荒れた。
 国鉄当局が第2次の人員整理を発表した2日後の7月15日21時25分に、国鉄中央線三鷹電車区構内に留置中の電車(7両編成)が無人のまま三鷹駅本屋方向へ突然走り出し、約60km/hの速度で車止めを突破して改札口と下りホームをつなぐ階段を突き抜けて約100㍍暴走の末、駅前広場の商店街に突入して民家などを破壊し、改札口を通行中の旅客6人が死亡、19人が重軽傷を負う電車暴走事故が起きた。いわゆる、“三鷹事件”である。この惨事の翌日、吉田首相は、「社会不安を起こしているのは一部の労組であり、共産主義者の煽動によるもの」との声明を発表した。

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                       《 国鉄中央線三鷹駅構内無人電車暴走事故・1949.7.15                  
 これに反応するが如くに、この事故は共産主義者による犯罪的行為によるものだとして検察当局は、国鉄労働組合に所属する共産党員9人と非共産党員の1人を容疑者として逮捕・起訴した。しかし、共産党員の共同謀議とする検察側の主張は“空中楼閣”だとして一審で退けられ、非党員の単独犯行であるとして竹内景助(三鷹電車区検査掛・28歳)一人が起訴されて死刑が最高裁で確定した。その後、無罪を訴え続けた竹内景助は再審請求中に東京拘置所で獄死(脳腫瘍・45歳)し、事件の真相は現在に至るも不明のままである。今も、関連支援団体により竹内景助に対する再審請求の提起が行われている。
 その三鷹事件から1カ月後の8月17日午前3時09分頃、国鉄東北本線金谷川~松川間を走行中の青森発上野行き上り旅客列車(第412列車・C51形蒸気機関車+客車12両)が脱線転覆(機関車と客車3両)し、機関士と機関助士ら3人が死亡、9人が負傷する事故、いわゆる“松川事件”が続いた。

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                    国鉄東北本線列車脱線転覆事故・金谷川~松川間 1949.8.17
 何者かによって、線路のレール継目板が外され、レールを枕木に固定している犬釘も多数本抜かれ、レールまでも1本が外されていたためであった。三鷹事件に続く故意による計画的列車妨害事件として大掛かりな捜査(福島県警)が行われ、国鉄の大量人員整理に反対する左翼系の労組による計画的犯行と断定され、国鉄と東芝の双方労組員合わせて20人が逮捕・起訴された。一審(福島地裁)で死刑5人を含め全員に有罪が言い渡されたが、1963(昭和38)年に証拠不十分により最高裁で全員の逆転無罪が確定している。そして現在に至るも松川事件は、下山事件や三鷹事件とともに未解決のままその真相は闇の中である。
 下山、三鷹と立て続けに起きた怪事件の黒幕として名指しされ、世間からの醜行を集めた共産党は、世論の後ろ楯を失いつつあった。三鷹事件から3日後の1949年7月18日に、国鉄当局は国鉄労組の中央闘争委員ら59人の免職を発令したが、その一方的ともいえるような発令にもかかわらず、すでに労組には抵抗する力は残されていなかった。こうした状況の変化が、国鉄労働組合を事実上の分裂に追い込んでいったのである。さらには、国鉄最大の“謎”として64年経った今以てその真相が解明されていない下山事件をはじめとする一連の怪事件(三鷹事件、松川事件)が当時の世相をして大きな社会問題を提起させるに及び、その影響の煽りを受けた国鉄労働組合は国鉄当局の人員整理に対する組織的反対闘争の意欲を挫かれる状況に陥っていった。そうした周囲の状況の変転は、国鉄の人員整理計画を予定通りに進捗させる方向へ働き、1949年7月21日に当初計画9万5000人の国鉄職員に対する人員整理は完了したのである。
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下山総裁の死を巡っては、他殺か…、自殺か…、事件直後から法医学会や 新聞業界において意見の対立を巻き起こした。下山総裁の死因(貨物列車による轢断であった)については、当時の東京大学医学部で鑑定が行われ、同大医学部の教授らは下腹部などに微少の内出血が見られるものの遺体のほとんどの傷に生活反応がなく、“死後轢断”(他殺)と判定した。対する慶応大学医学部の教授らは、手足の甲にある表皮剥離していない皮下出血が“轢死体特有”(自殺)であると反論し、事件から間もない衆議院法務委員会等で鑑定結果を巡り真っ向から対立し、その結論は並行線に終わっている。また、事件の捜査に当たった当時の警視庁捜査本部においても自・他殺の両説があったとされ、事件から1カ月後に自・他殺いずれとも決定はできないと発表して捜査は中途半端な段階で中止され、事件発生5カ月後には迷宮入りしている。
 一方、朝日新聞や読売新聞をはじめとする各紙は「他殺説」を展開し、毎日新聞などは「自殺説」を報道するなど、両説が乱れ飛んだ。その後も、新たな進展を見ることもなく原因不明のままに1964(昭和39)年7月5日に時効を迎え、“ナゾの死”として下山事件は日本の鉄道史に埋もれたままである。
 また、下山事件の11年後(時効4年前)の1960(昭和35)年に作家の松本清張氏が雑誌『文藝春秋』に連載して大きな反響を呼んだ「日本の黒い霧」(連合軍占領下の戦後日本で頻発した不可解な未解決事件の背景を追った作品集)の中で、同氏は「下山国鉄総裁謀殺論」を取り上げ、下山総裁は人員整理(首切り)に抵抗したことでGHQの怒りに触れ、関連する米国の謀略機関によって殺害されたに違いないと推理した。しかし他方、“自殺論”も周りでは根強かったのである。
画像        下山国鉄総裁轢死現場の捜索・国鉄常磐線五反野カード下 1949.7.6
下山事件の真相を突き詰めたくも、敗戦後の連合国軍占領期下における日本の戦後史にはGHQの言論統制などにより空白を余儀なくされた部分も多く、データを得たくても資料不足に陥っていたことは否めない事実である。ただ、松本清張氏が下山国鉄総裁謀殺論を文藝春秋「日本の黒い霧」で取り上げた頃(1960)に比べ近年では、同氏が蒐集叶わなかった資料も米国の公文書公開で占領下における米国の日本政府に対する関与の情報などが明らかになっている。されど、これまでに数多の識者や研究者らが下山事件の真相追求・解明に挑むも、今となっては半世紀を大きく超える時の経過は如何ともし難い現実として存在し真相の追求を阻んでいるとともに、占領軍下の言論統制の故もあって事件解明の糸口は掴めないまま闇に潜む。
 公共企業体日本国有鉄道の黎明期、下山事件を端緒に続いた一連の怪事件(下山、三鷹、松川の3事件:戦後の国鉄三大怪事件と言われた)は、その現実(実態)を目の前にしながら、長い時節の移ろいを経るも未だにその真相は曖昧模糊として漂い、今も、日本の鉄道史の中で残像として浮遊しながら彷徨を続けている。 【 関連公開ブログ『短命の怪死』2007.11.4 】 (終)  「鉄道重大事故の歴史」(久保田 博)、「下山事件」(森 達也)を参照させていただいた。

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