鉄 路・顕彰の記

・・・ 今、記憶の彼方に埋没してしまったかのように彼の地にひっそりと建つ、国鉄当時の鉄道の顕彰碑を少しくひもとき、偲んでみたい ・・・

『 超 我 の 碑 』 ・ ・ ・
碑 文
     鉄道建設審議会長 鈴木善幸書
 昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸、川内間で雪崩に逢い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田機関助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当たった。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は已に尊い命は奪われていたという。正にこの行為は「超我と友愛」の精神によるものであり、我々の理想とする処でもある。よって、そのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えんとするものである。
                                         宮古ロータリークラブ


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                           〈 超我の碑・JR山田線宮古駅前 〉
この顕彰碑は、1944(昭和19)年3月12日午前7時56分、国鉄山田線(現・JR)で起きた雪崩による列車脱線転落事故の際に、機関士(加藤岩蔵 28歳)と機関助士(前田悌二 19歳)の2人が執った果敢な行動を顕彰するために、1972(昭和47)年11月に宮古駅前(岩手県宮古市)に建立された。碑文は、当時の鉄道建設審議会長だった鈴木善幸氏(元首相・岩手県山田町出身)の揮毫による。
 画像なお、当該事故は、戦後に東映映画が制作して多くの人々の感動を呼んだ、東北地方の山野を舞台に盛岡機関区の機関士一家の戦前から戦後にかけた激動の時代を生き抜いた人生のドラマを描いた映画『大いなる旅路』(1960(昭和35)年の制作、主演・三国連太郎(2013.4.16逝去))のモデルとなった。ちなみに、この映画の圧巻シーンの一つでもある列車脱線転落の場面は、当時、 国鉄の支援を仰いで盛岡鉄道管理局長立ち会いの下に山田線浅岸駅構内の引き込み線を使い、実際に蒸気機関車(18633号機)を脱線転覆させて撮影された。
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今から約70年も前の1944(昭和19)年3月12日午前7時56分、国鉄山田線(盛岡~釜石間157.5km・全線単線非電化)の平津戸~川内間(9.3km)において雪崩の発生により鉄橋(第二下平鉄橋)が流失していたため、下り貨物列車(C58283+空貨車13両)が脱線して機関車と貨車5両が約30㍍下の閉伊川に転落し、機関士が死亡、機関助士が負傷した。
 この事故で、転落した機関車の運転台と炭水車との間に挟まれ重傷を負った加藤機関士は、事故直後に継発事故を防止するため駅への緊急連絡を前田機関助士に指示した。しかしながら、指示に従うべく事故現場を離れたものの、多量の積雪に行く手を阻まれて戻らざるを得なかった前田機関助士は、厳寒の最中で重傷を負っている加藤機関士を自分の着衣を脱いで被い、余熱を蓄えている石炭の燃え殻を運んでは機関士の体温の低下を防ぐなどして、長時間にわたり寒中での看護を続けた。しかし、前田機関助士のその献身的な努力も虚しく、救援隊の到着を前に加藤機関士はすでに息絶えていた。
 当該事故で負傷(右手に骨が露出する裂傷)を負った前田機関助士は、その後、事故が起きたその年の9月に届いた召集令状により横須賀の海兵団に入隊して職場を離れたが、終戦とともに国鉄(宮古機関区)に復職し、機関士となって山田線での輸送の任に就いていた。その前田悌二さんは、現在、高齢ながら岩手県宮古市泉町でご健在と聞く。
画像         〈 復帰したC58283蒸気機関車・JR山田線船越駅 〉
 また、この事故で川底に転落して大きな損傷を被ったC58283号機は、戦後に川底から引き上げられて福島の郡山工場で修復され、山田線が全線ディーゼル化される1970(昭和45)年3月近辺まで再び同線で働き、旅客や貨物輸送の任に就いていた。
 当の列車脱線転落事故は、当時、遠洋の南方戦線で多くの日本兵が戦死するなど戦雲急を告げる戦時体制という時局の折から、戦意を損ねるような事態等の報道は極力避けるべきという情勢下にあって、当該事故も新聞等への掲載が控えられたのであろう。そして、時節の経過の中で忘れ去られていったのだ。そんな状態であった中で、当該事故が改めて表に出るきっかけとなったのは、昭和30年代前半に盛岡鉄道管理局内の機関部労働組合盛岡支部が刊行した「殉職者頌徳帳」の存在だった。この頌徳帳に、山田線列車脱線転落事故の詳細と、宮古機関区長や事故列車に乗務していた前田機関助士らの手記が掲載されていたのだ。これが奇しくも当時の脚本家・新藤兼人氏の目に止まり、映画化(「大いなる旅路」)への契機となったことが改めて山田線の同事故を明かす発端になったと言われている。

『 高橋照君の像 』 ・ ・ ・
碑 文
 昭和二十八年九月二十五日襲来した十三号台風により 武豊町塩田地區の護岸堤防が決壊し高潮の浸水によって鉄道線路が洗われたので列車の運行が危険な状態となった この時旅客列車が東岩瀬駅を発車したことを知った武豊駅駅手高橋君は荒れ狂う濁流と暴風雨とをおかして発煙筒を打ち振って危険信号を送った このため列車は危機寸前に停車して多くの乗客の生命は救われたのである 然し高橋君は哀れにも怒濤にのまれ悲壮な殉職をとげてしまった
 その尊い犠牲的行為に感激し有志が相談して君の胸像を建てその功績を永遠に伝える
                            昭和二十九年九月 愛知県知事 桑原幹根撰 志芳書


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                            〈 高橋照君の像・JR武豊線武豊駅前 〉
この胸像の碑は、台風13号(1953.9.25)により知多半島一帯が大きな被害を被った際、武豊線(当時国鉄)の武豊駅駅員が自らの危険を顧みずに危機に直面している旅客列車を危険信号を打ち振って救った上に、自身も殉職した一人の国鉄職員の顕彰の碑である。
 武豊町の有志が代表となり、殉職した高橋照君のために何らかの記念碑をとの趣意書を下に、武豊駅の駅長をはじめ沿線の各駅長、当時の国労名古屋地方本部などから浄財が募られ、武豊駅前に1954(昭和29)年9月に建立された。ちなみにこの碑は、陶器の産地・常滑で焼かれた陶器製の胸像碑で、陶芸作家・片岡静観氏の作である。
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1953(昭和28)年9月25日、中部地方の知多半島を直撃した台風13号(英語名Tess:テス)で塩田海岸(愛知県)の防潮堤が決壊し、満潮時と重なった高潮で国鉄武豊線の線路が浸水し、列車の運行が大変危険な状態となっていた。
 武豊駅の助役から列車停止手配を命じられた同駅の高橋駅手(23)は、身を整えて線路を高潮と重なった濁流が渦巻く中を、武豊駅へ向かって走行中の旅客列車を危険箇所の手前で止めるべく、自らの危険を顧みずに列車に向かって強い風雨と線路を流れる濁流の中を止まれの危険信号を高く打ち振りながら突き進んでいった。幸いに、この危険信号を認めた列車は危険箇所の手前に急停止して事なきを得たが、高橋駅手はそのまま駅に戻ることはなかった。
 浸水が2㍍近くに及んでいたことから、水が引くのを待って高橋駅手の捜索が続けられた。その翌日の午前11時過ぎに、線路から少し離れた水田の中で、ゴム合羽に身を包み手に発煙筒を握ったままの姿で事切れた高橋駅手が発見された。
 ちなみに台風13号は、1953年9月25日に紀伊半島を襲い、近畿地方を中心に大きな被害を与えた台風である。同日の17時頃に伊勢湾南部を通過し、愛知県に再上陸した台風13号による同県の被害は、死者72名、行方不明者3名、負傷者1711名、全壊家屋1477戸、床上浸水3万1801戸に及んだ。

『 大山健一顕彰之碑 』 ・ ・ ・
碑 文
大山健一顕彰之碑 第七代日本国有鉄道総裁 藤井松太郎
安全の誓い
 昭和五十年十二月二十七日 大阪車掌区大山健一君は普通電車に乗務し 当須磨駅において新快速電車通過のため待機中 線路上に転落した旅客を発見するや危険の急迫をも顧みず敢然と身を挺して救出にあたりましたが力およばず 旅客とともに折から進入してきた通過電車に触れ 希望あふれる若き生命を鉄路に散華されました この人間愛に徹した至誠至純の犠牲的な行為は 多くの人々に深い悲しみとともに言い知れない強い感動を与えました 私たちは大山君のこの責任感あふれる崇高な行為をたたえ その御霊を慰めるとともに輸送の安全への誓いをこめてここに顕彰の碑を建立し 永くその遺徳をしのびたいと思います。
昭和五十一年十二月
発起人  大阪鉄道管理局第百十五期列車掛見習同期生一同
      昭和四十八年度関西鉄道学園研究第二科同期生一同
      大阪車掌区自治会(七二八会)
賛助者代表 第三十四代大阪鉄道管理局長 吉井浩 他六十三名


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                         〈 大山健一顕彰之碑・JR山陽本線須磨駅 〉
JR山陽本線(神戸線)の上り電車が須磨駅(神戸市須磨区)を出ると、間もない鉄道用地内の左側に正面を線路側に向けた「大山健一顕彰之碑」が清楚な佇まいで建っている。傍らの踏切道を抜ければ、その先には風光明媚な須磨の海岸(須磨の浦)が展開し、白い波打ち際が待ち受ける。
 ちなみに事故当時の須磨駅(神戸市須磨区)の構内は、2面の島式ホームとそれを挟む4線(いずれも電車線)で、その北側を上下の列車線2本(ホームはない)が通っている。駅の南側に位置する両端側の1番線(下り)と4番線(上り)が副本線(通過待ち線)で、内側の2番線(下り)と3番線(上り)が本線という構成であった。現在も、須磨駅構内は当時とほぼ同様の構成である。
画像                               〈 JR山陽本線須磨駅 〉
1975(昭和50)年12月27日15時50分に、山陽本線の吹田発西明石行きの第267C普通電車が新快速電車の通過待ちのため、須磨駅下り1番線に到着した。その時、新快速電車が通過する下り2番線のホーム側をフラフラと千鳥足で歩いている一人の年輩男性の旅客がいた。神戸市の職員(大前喜一さん・65)で、この日が御用納で正午に仕事を終え、市内で飲酒をしての帰宅途中であった。
 新快速電車の通過待ちのため、ホーム上で電車の通過監視にあたっていた普通電車の車掌・大山健一さん(25)の目の前で、2番線ホーム側を歩いていたその年輩男性が線路上に転落したのだ。大山車掌に、躊躇などなかった。咄嗟に線路上に飛び降り、新快速電車が50㍍ほどまでに接近していた中で、男性を抱きかかえ必死でホーム寄りの側溝に自ら男性の上に覆い被さるようにして伏せた。その二人の姿を覆い隠すように、6両編成の新快速電車がけたたましい非常気笛を響かせ、非常ブレーキを軋ませながら、ホームを行き過ぎたところで停車した。
 その結末は、最悪であった。大山車掌の執った人命救助の敢然な行為も、須磨駅を通過するため疾走してくる新快速電車を前にしては、あまりにも短すぎた時間と距離だったのである。そこには、レールを血に染め、二人の悲惨な結末が待っていたのだ。まさに、一瞬の出来事であった。
 自らの身の危険を顧みず、敢然と我が身を挺して旅客の人命救助に立ち向かった大山健一車掌(大阪車掌区)は、1973(昭和48)年に神戸の大学(甲南大学)を卒業して国鉄に入社、1975(昭和50)年2月から山陽本線で車掌の職に就いていた。ご尊父も、大阪鉄道管理局(会計監査役)に務める国鉄一家であった。

・・・ 日本の各地に建てられている日本国有鉄道にゆえんの顕彰碑は、今になお、至誠・至純に培われたかつての“国鉄魂”を厳然と覗かせてくれる。碑面に刻まれた碑文のひとつひとつは、元来在るべき鉄道マン魂が遺憾なく発揮された事実を物語り、永く後世に伝える貴重な資料足り得るものである。これら顕彰碑の前に立てば、無言のうちに語りかける碑文に、おそらく畏敬の念を禁じ得ないことであろう ・・・ (終)… 「続・事故の鉄道史」「鉄道重大事故の歴史」を参照させていただいた

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