瀬戸大橋開通25周年に寄せて

画像 国4県民400万人の夢を実現させた、瀬戸内海の備讃瀬戸を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ瀬戸大橋が、1988(昭和63)年4月10日に開通してから今年で25周年を迎えた。また、瀬戸大橋の開通と時を同じくして営業を開始した本州と四国を鉄路で結ぶJR瀬戸大橋線(JR宇野線岡山~JR予讃線高松間71.8kmの路線で、JR宇野線岡山~茶屋町間、JR本四備讃線茶屋町~宇多津間、JR予讃線宇多津~高松間の3路線を合わせたルートの愛称)は、延べ利用者数がこの25年間におよそ2億2500万人に及び、本州・四国周辺地域のみならず、日本列島全体にわたり交流人口の拡大化や活性化に貢献して大きな役割を果たしている  それら3路線のうち実際に瀬戸大橋を通るJR本四備讃線は、JR宇部線の茶屋町駅より分岐し、途中の植松・木見・上の町・児島の各駅を経てJR予讃線宇多津駅までの31.0km(茶屋町~児島間12.9kmはJR西日本、児島~宇多津間18.1kmがJR四国で、児島~宇多津間で瀬戸大橋を渡る)の区間で、そのほとんど(本州方一部区間を除く)が高架構造の路線である。

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                      〈 JR瀬戸大橋線開業25周年記念式典・児島駅 2013.4.10 〉
 ちなみに、前述の如く瀬戸大橋を通る鉄道路線は本四備讃線が正式名称だが、総じて一般には“瀬戸大橋線”と愛称名で呼ばれているのが日常であるという。巷の話によれば、鉄道で瀬戸大橋を往き来する人たちの間で利用する路線名を“瀬戸大橋線”と呼んでも、“本四備讃線”と正式名称で呼ぶ人などは誰もいないという。それほどに、愛称名ながら鉄道路線としての“JR瀬戸大橋線”は、瀬戸大橋の存在そのものを代表していると言えよう。

19 89(昭和64)年1月7日に、“昭和”の時代に終焉を告げるかのように昭和天皇が逝去され、元号が“昭和”から“平成”へと変わった。わずか7日で終わってしまった昭和64年だったが、実質的には前年の昭和63年が“昭和”の時代を締めくくる最後の年であった。その昭和63(1988)年は、3月13日に開通した青函トンネルと4月10日に開通した瀬戸大橋の二大プロジェクトの完成により日本列島が陸続きとなって結ばれるという、昭和史の最後を飾るに相応しい年であった。
 鉄道にとっても1988(昭和63)年は、この二大プロジェクトの完成によるJR津軽海峡線とJR本四備讃線の開業で日本列島が1本のレールで繋がるという、新たな時代を迎えることになった年であった。ただ、その陰で、橋渡し役として日本の鉄道を長年にわたり懸命に支えてきた、80年の歴史を刻み続けた青函連絡船が1988年3月12日に、78年の歴史を持つ宇高連絡船が同年4月9日に、それぞれの長い歴史を静かに閉じている。

本列島を文字通り鉄路で“一本列島”とした、瀬戸大橋の開通により開業したJR本四備讃線。その本州と四国を結ぶ本四連絡橋の構想が生まれたのは、1889(明治22)年と意外に古い。そして、連絡橋架橋への建設が具体化したのは、構想が生まれてから半世紀以上が経った1955(昭和30)年になってからであった。
 当初は、トンネル案が先行していたが、その後鉄道と道路を併用した橋梁案に変更されて、1955年4月に運輸省(当時)が鉄道橋の、1959(昭和34)年4月には建設省(当時)が道路橋の調査に着手している。そして、1969(昭和44)年5月に国の新全国総合開発計画が閣議決定されると、その中で本四連絡橋として神戸~鳴門間、児島~坂出間および尾道~今治間の各ルートの建設が明記された。その翌年7月に本州四国連絡橋公団(本四公団)が設立され、前述の本四連絡橋3ルートに対する各種調査が国から本四公団へ移管・継承されている。

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                              〈 瀬 戸 大 橋 全 景 〉
 1973(昭和48)年9月に本四公団は、3ルート同時着工の工事実施計画を運輸・建設の両大臣に提出して同年11月に認可・内定を得たものの、高度成長を続けていた日本経済を襲った第一次オイルショックの影響により工事計画は延期を余儀なくされてしまった。しかし、昭和50(1975)年代に入って日本の経済は高揚の時代に終わりを告げるが、停滞・低成長を続けながらも安定期へ入っていった。そうした状況の中で国は、1975(昭和50)年8月に3ルートのうち当面1ルートを道路・鉄道併用橋として早期完成を図る方針を決定し、1977(昭和52)年11月に閣議決定された第三次全国総合開発計画の中で児島~坂出ルートの建設計画が明記されるに至った。その結果、1978(昭和53)年10月10日に児島~坂出ルートによる本四間橋梁架設の起工式が行われ、建設には最新・最高の土木技術を結集・駆使して総事業費約1兆1300億円の巨費が投じられ、9年6カ月の工期を経て1988(昭和63)年4月10日に道路・鉄道併用橋の瀬戸大橋は開通したのである。

設(架橋)にあたり、工法、耐震性、潮流、気象条件など多角的な面からの検討が重ねられ、近代技術を結集して完成を見た海上橋梁の瀬戸大橋(総延長13.1km)は、5つの島(塩飽諸島)を結んで架けられた6つの橋梁(延長約9.4km)と、それらを結ぶ高架部(島内)からなる2層構造(2階建て)の橋梁である。上部層を4車線の瀬戸中央自動車道が通り、JR本四備讃線(複線)が下部層を走る、道路・鉄道併用橋としては世界最長である。
 完成から四半世紀、海上架設橋梁として厳しい環境下に晒されながら、本州~四国間の人と物の交流を日夜を分かたずに担い続ける瀬戸大橋。その瀬戸大橋に対し、2009(平成21)年10月に実施された定期点検の際、橋梁上部層の車道を支える鉄製の継ぎ目部分で長さ5㎜前後の金属疲労によると見られる亀裂が11カ所見つかっている。しかし、即影響が出るという状況にはなく、自動車の通行に支障はなかった。ただ、橋梁下部層に鉄道が走っているため容易には補修ができない状況にあり、応急処置により対処されているという。
画像 〈 瀬戸大橋…道路・鉄道併用構造の下層部を通るJR本四備讃線 〉
 橋の設計当初、新幹線が通ることを想定していた下部層の鉄道部分は、金属疲労に対する耐用性を考慮した設計であったが、上部層の道路部分は対象外だった、と瀬戸大橋の構造に詳しい東京大学の藤野特任教授は語る。また、同教授は、橋に何か障害が起きても安全な方向へ制御可能なフェイルセーフ設計のため、その程度の亀裂は致命的な問題とはならないと言う。
 その上で同教授は、今後50年、100年先にわたって橋をより安全に維持させるなら、他の部位でも疲労の有無をチェックすべきだろう、とも語る。高度の安全設計の下で構築された瀬戸大橋は、次の世代へも安全で快適な本・四間の交流を約束してくれるに違いない。今、開通25周年を迎えた瀬戸大橋の健在は、さしずめその存在自体が近代における高水準の技術力を実証しているのではないだろうか。
 同様に、過去にイギリスにおいて、完成祝賀会にビクトリア女王が参列されたほど高水準の技術力の実証を見せた、海上(入江)に架けられた鉄道橋があった。時は古く、1878(明治11)年6月にスコットランドで竣工した、当時のイギリスで最長(全長2200㍍)のティー鉄橋である。そのティー鉄橋で、竣工1年半後の1879(明治12)年12月28日の夜、世界の鉄道史に残る鉄橋崩壊による列車転落という大惨事が起きたのである。
 エジンバラから北のアバディーンへ向かう途中には、渡らなければならない海が内陸部に深く切り込んだ入江が2カ所(フォース入江とティー入江)あった。そのため、列車でロンドンから東海岸回りでアバディーンに向かう乗客は、列車を2度も乗り降りしてフェリーを利用しなければならなかった。この不便さを解消すべく、当然の如くに計画されたのが入江を渡る鉄道橋の建設で、入江の一つティー入江に架けられたのがティー鉄橋であった。
 1879年12月28日の夜、その日は1日中風が非常に強く、その強風(約40m/sec)の中をロンドン行きの急行旅客列車(蒸気機関車牽引の客車5両+緩急車1両)がティー鉄橋のほぼ中央部を通過しているとき、突然に鉄橋中央部の長スパン箇所(船舶の航行箇所)の橋桁が崩壊し、急行旅客列車は橋桁とともに暗闇の海中に転落し、没してしまった。夜明けを待って、救助船による列車転落付近の捜索が行われたが生存者は見当たらず、この鉄橋崩壊による列車転落事故で乗客73人・乗務員5人が犠牲となった。原因は、鉄橋の設計や工作法、使用部材等が競合した、鉄橋自体の強度不足によるものだった。
 架橋にあたっては、入江の船舶の航行に備え、鉄橋は海面より27㍍高く建設された。しかし、予想に反し地盤が悪かったために橋全体の重量を少なくする必要から、鉄橋の構築部材を当初の煉瓦構造から鋳鉄を使う方向(軽量化)に変更された。後に、本事故の反省の中から、鋳鉄や錬鉄で建造された橋は強度的に不足する(弱い)との認識がもたらされるに至った。当のティー鉄橋崩壊列車転落事故は、後々の橋梁建造技術に多大な影響を与えることになる鉄橋の建造に鋼鉄を採用する契機となり、橋梁の建設が大きく進歩を遂げる礎となった。 (当該事故については『なぜ起こる鉄道事故』(山之内秀一郎)を参照させていただいた)
過日、“瀬戸大橋で亀裂見つかる”との新聞記事に接してふと私の脳裏を過ったのが、今から20、30年も前になろうか、鉄道会社に勤めていた頃に教育資料にと紐解いた事例が、当該ティー鉄橋事故だった。すでに鉄道の職を退いて10年余りを経るが、妙にはっきりと記憶に甦ったティー橋鉄道事故であっただけに、蛇足ながら敢えて記した次第です。
画像                   〈 宇高連絡船・紫雲丸沈没事故の報道 〉
後間もない1946(昭和21)年から、戦後復興を主導して続いてきた吉田内閣の時代が終わった1954(昭和29)年は、戦争(太平洋戦争)で疲弊していた日本の経済が一段落を迎えた年で、世の中全体に活気がみなぎり始めていた頃だった。
 そして、昭和30(1955)年代の幕開けは、翌年(1956(昭和31))の夏に出された経済白書が“もはや戦後ではない”と戦後の終了を宣言した如くに、消費水準の向上や工業生産の拡大、流通の活況、好調な輸出等によって日本経済の高度成長が始まろうとしていた、いわゆる“神武景気”到来への序章だった。そんな日本が活気づき始めた年(1955(昭和30))の4月に国鉄においては、本州・四国間の連絡鉄道橋建設に向けた調査が開始されている。 しかし、皮肉にもその翌月の11日に、小中学生の修学旅行生を含め950名が乗船していた宇高連絡船の紫雲丸(1480㌧)が高松港を出港後に、濃霧の高松港沖約4kmの海上で第三宇高丸(1282㌧)と衝突して沈没し、死者168名・負傷者131名を出す海難事故が起きている。その前年(1954)の9月26日に起きた、台風15号による猛烈な暴風の洗礼を受けて沈没し死者1632名を出した青函連絡船・洞爺丸(4337㌧)事故に続く大きな海難事故であっただけに、宇高連絡船・紫雲丸の沈没事故は何とも行き場のない悲しい出来事だった。
 こうした悲惨な海難事故からの回避を願って、青函トンネルと瀬戸大橋の建設起工へ機運を高めた洞爺丸・紫雲丸の両事故から30余年が経って、2大プロジェクトは奇しくも再び時を同じくしてそれぞれに完成を見たのであった。
 そして今、迎えた開通25周年を節目に瀬戸大橋は、新たな未来へ向けスタートを切ったところである。 (終) 関連公開ブログ「惑う ~覗いた青空」2013.1.31

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