惑 う ~覗いた青空

青函連絡船・洞爺丸沈没の大惨事
現在、広島県に在住し、公益財団法人・広島平和文化センター理事長の職にある米国人のスティーブン・リーパーさん(65)は、今の仕事について次のように語る。今の事業に打ち込んでいるのは、洞爺丸遭難沈没事故(1954(昭和29)年9月26日)で亡くなった父親のディーン・リーパーさん(当時38)の影響から日本との関わりが深まり、かつて“世界平和と友好のために働いた父の精神を受け継ぎたい”との思いがあってのことだと。洞爺丸遭難沈没事故の大惨事では、米軍人の軍属など外国人の多くも犠牲になった。その犠牲者の中には、当時、キリスト教青年会(YMCA)の宣教師として北海道に来ていたスティーブンさんの父親のディーンさんも含まれていた。
画像 〈 スティーブン・リーパー氏 〉 
 その子息であるスティーブンさんが、洞爺丸の沈没事故による父親の遭難死を知ったのは、7歳になる直前だったという。後になって、幸運にも沈没事故から生還した人たちから、沈没を目前にして父親が救命具を着ける乗船客たちを手助けしていたという当時の様子を聞き及んだ。迫り来る沈没の危機に自らも直面していながら、父親の取った行動に感銘と誇りを抱いたことが今の仕事に専念する力になっていると言う。洞爺丸遭難沈没事故からまもなく60年が経とうとしている先年、スティーブン・リーパーさんは沈没現場の七重浜へ慰霊に訪れている。

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                           〈 ありし日の青函連絡船・洞爺丸 〉
七重浜の浜辺から約300㍍の沖合で、1954(昭和29)年9月26日の夜、青函連絡船の洞爺丸(4337㌧)が折からの大型台風15号(国際名「マリー」、後に“洞爺丸台風”と称された)による風速50㍍を超える大暴風雨に遭遇して横転・沈没し、死者・行方不明者1155人を出す日本海難事故史上最悪の、タイタニック号に次ぐ世界海難事故史上二番目の事故が起きた。
 この日の未明に、九州の大隅半島に上陸した大型の台風15号は、中国地方を通過して時速100キロを超える猛スピードで日本海を北上した。その影響から、北海道の函館周辺は朝から20㍍を超える風と雨が強くなっていた。この強い風雨に伴い、函館海洋気象台は午前11時半に暴風雨警報を発した。これを受けた国鉄は、午後2時40分に函館港を出航予定だった上り青函連絡船・洞爺丸の運航を見合わせていた。
 その後、函館付近を通過中と見られていた平均風速20㍍前後の強い風雨が、午後5時頃になって急に10㍍前後に弱まり、青空も覗いた。斯くして、多くの関係者は台風の目に入ったものと判断し、その後は多少の吹き返しがあったにせよ風雨はやがて収まるものと今までの経験則から予測していた。そして、午後6時39分、4時間近く出航を見合わせていた洞爺丸は、船長の出港判断でようやく青森へ向け函館桟橋を離れた。 
 その頃対岸の青森港では、定刻の午後4時30分に青森港出港予定の下り青函連絡船・羊蹄丸が、夕刻になって青森桟橋の風速が10㍍前後と弱まった中で、何故に出港しないのかといった乗船客たちの苦情や非難が吹き出ていたが、船長の出港すべきではないとの判断の下で停泊に入っていた。

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                        〈 七重浜沖で転覆し沈没した青函連絡船・洞爺丸 〉
 一方の洞爺丸は、函館桟橋を離れ港の外に出て間を置かず、突然に凄まじい風雨が再び来襲してきた。風速は57㍍に達し、洞爺丸は防波堤を抜けた辺りで投錨、避難態勢に入った。しかし、強風に煽られて高まった波浪が、洞爺丸船尾に広く開口している鉄道車両の搬出入箇所から車両繋留甲板に流れ込み、瞬く間に同船の心臓部(機関室、ボイラー室、発電機室)への浸水に及び、操船の術を断たれて運航不能に陥った。そのため、強風と高い波浪によって陸側へ吹き寄せられた洞爺丸は、七重浜の沖合約1kmの浅瀬(水深8~10㍍)に座礁してしまった。その衝撃で、船底の車両繋留甲板に積載していた鉄道車両を固定していたチェーン(金具)が切断し、重い鉄道車両が相次いで横倒しとなった。これが半ば致命傷となって、船体のバランスを欠いた洞爺丸は強風に翻弄されながら右舷側へ大きく傾き、乗船客がパニック状態に陥る中で午後10時45分に転覆・沈没した。
 当時、コックとして洞爺丸に乗り組んでいた秋保栄さん(79)は、“ドドーンという凄まじい音が船底から聞こえ、強い振動を感じた”と語り、すぐに船体が横倒しになり海水がドッと流れ込んできたと言う。この台風による荒れ狂う津軽海峡では、洞爺丸のほかに日高丸、第11青函丸、北見丸、十勝丸の貨物連絡船4隻も相次いで遭難・沈没し、このときに青函連絡船はその半数が失われた。

台風の勢力は、台風が進む方向に向かって右半円側が強いとされる。当時、津軽海峡沿いに進むものと見られていた台風15号は、その予想を裏切って渡島半島西方の日本海上を進んだのである。すなわち、津軽海峡に面する函館湾は台風の勢力が増す右半円の範囲に入ってしまっていたのだ。同時にまた、地形的には津軽海峡に面して南西方向に開口している函館湾の対岸はとかく青森と思われ勝ちだが、実際には日本海に面する能登半島方向であって、航行中の洞爺丸をはじめとする青函連絡船は日本海を進む台風15号の直撃を受けてしまったのだ。そして、台風の目と思われて洞爺丸を出航に導いた突然に覗いた晴れ間は、台風の弱まりを予兆する台風の目ではなく、後の調査から津軽海峡付近に出現した寒冷型の閉塞前線(一般的に動きの遅い温暖前線に寒冷前線が追いついてできる前線で、低気圧の発達期から衰退期に発生する。地上は全て寒気に覆われて、大抵の場合は大気の渦(低気圧)は無くなる)による一時的現象であったとされた。実際には、その時の台風15号の中心は渡島半島の日本海上にあったのである。
 米国の占領状態が終わって(1952(昭和27)年4月)間もない、当時の日本の気象観測網体制はいたって貧弱であった。勿論のこと、気象衛星などない当時においては、現在のように正確に天気を予測・予報するのは甚だ困難であったろうから、おそらく気象観測にあたっては経験や過去のデータ等に拠るところも多分にあったのではとも思われる。当時、台風15号が函館地方に襲来した日の予報を担当したある予報官は、一瞬の青空が招いた大惨事に思いを馳せ、後になって次のように述懐していたという。…「知識や経験が、巨大な自然現象の前には如何に小さいかを思い知った。決定的な瞬間の現象は、我々が持つ経験の壁の向こう側にある。だからと言って、そこで起こった災害に責任がないと割り切るには、それはあまりにも大きな犠牲ではないか」…と。

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                             〈 函館山を遠望する七重浜 〉
JR函館本線の函館駅から津軽海峡に面した湾沿いを車で20分ほど走ると、左手間近に函館港を望む静かな湾内に在る、あの忌まわしき青函連絡船・洞爺丸遭難沈没現場であった七重浜(北海道北斗市)に着く。今も、秋の頃になると、函館山を遠景に望む洞爺丸遭難沈没現場の七重浜に慰霊(七重浜近くに整備された小公園内に遭難慰霊碑が建ち、例年の慰霊祭会場となっている)に訪れる人は絶えないという。
 七重浜の近くで少年時代を送ったある男性(64)によれば、周りの砂浜にはハマナスが咲き乱れ、海に潜って魚を捕ったりした浜辺は絶好の遊び場だったという。ただ、お盆の時には海に入ってはいけない、と親御さんから強く言い聞かされていたという。浜には、洞爺丸台風で逝った者たちがお盆に帰ってくるという、言い伝えがあったからだという。
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80年来此の方、朝日新聞を愛読する我が家。1954(昭和29)年9月27日、秋口の陽が沈みかけた頃に配達された夕刊、その第1面を覆った「函館港の惨状・五連絡船が沈没」の大見出しとともに、“死体八百余を収容”というショッキィングな文字が、当時青春真っ只中の高校1年生だった私の目を射た。その時の、私の心に響いた衝撃は、老境に入った今もくっきりと脳裏を打つ。
 その悲惨な洞爺丸遭難沈没事故から2年が経った1956(昭和31)年9月に、高三の北海道への修学旅行で私は初めて青函連絡船で津軽海峡を渡った。波静かな大海原を行く連絡船上(羊蹄丸)から望んだ津軽海峡、あの大惨事が私の心にはどうしても結び付かなかったのを覚えている。
 その後、私は3度(一人旅、家族旅行、グループ)津軽海峡を青函連絡船で往来している。今でも、青函連絡船・洞爺丸遭難沈没事故に対する忌まわしさは、私の人生の中でも際立つ事象の一つである。 (終)…朝日新聞(夕刊)「昭和史再訪・一瞬の青空が招いた大惨事」の記事から引用させていただいた…  関連公開ブログ「かつての津軽海峡余話」2012.12.3

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