かつての津軽海峡余話

私にとって初めての津軽海峡は、彼の青函連絡船の洞爺丸事故後2年経った1956(昭和31)年秋(9月)の北海道への修学旅行のときで、高校3年生の青春真っ只中のことだった。画像
                            〈 我が青春・青函連絡船摩周丸船上 1956.9 〉
 上野駅を発った夜行列車の車中で、担任の先生から配られた乗船客名簿(青函連絡船旅客名簿)に、初めて乗る青函連絡船への気持ちの昂りを抑えながら、列車の揺れるに任せて級友とともに記入した当時の情景を懐かしく思い出す。
 列車が青森駅に着くや否や、脱兎のごとくホームを走り出した乗客たちを驚きの目で追いながら、私たち修学旅行生も何やら急かされている思いで青函連絡船の乗り場へ連絡橋を整列しながら進んで行ったのを、今も妙に覚えている。そして、逸る気持ちを鎮めながら、初めて乗船した青函連絡船(摩周丸)ではあったが、今ここで思い出せるのは船内で食べた塩味の効いたポップコーンの旨かったことぐらいで、後のことは遠い記憶の彼方に消えて曖昧模糊としている。あの時から半世紀以上が経つのだ。無理からぬことだと、古い書棚の奥からこれまた古いアルバムを引っ張り出すことにした。
 私は、これまでに北海道へは先の修学旅行を含め4度(一人旅、家族旅行、グループ旅行)訪れているだけで、その全ては青函連絡船がその使命を終えて青函トンネルを通る鉄道に替わった1988(昭和63)年3月以前のことであった。それ以降にも訪れたい気持ちを持ち合わせてはいたが、結局は機会に巡り会わずに過ぎてここまで来てしまった。

画像 〈 乗船客名簿 〉 
 それ故に、当時乗船した摩周丸や羊蹄丸、大雪丸などの青函連絡船と、その舞台であった津軽海峡には旧懐の念が滲む。せめても、その頃の津軽海峡に想いを馳せ、少しくその近辺に触れてみたい思いでその一端を次にしたためた次第です。 

終戦からひと昔を経ようという前年の1954(昭和29)年は、終戦直後から続いていた吉田茂内閣の時代が終わりを告げ、敗戦により衣食住を含めあらゆるものが不足してどん底の経済事情に喘ぎ、前途に希望が失われかけていた時世もようやく落ち着きを見せて、戦後の経済復興が一段落を示しはじめた年であった。巷では、プロレスブームに沸き、サイクリングなどの屋外スポーツが盛んになり、世間全体に活気が漲りはじめた年でもあった。
 その1954年には、いまだかつて経験したことのない出来事が二つ起きた。一つは、3月1日にマーシャル諸島近海で操業をしていた日本の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が、ビキニ環礁で米軍が行った水爆実験に遭遇して同船の乗組員全員が降り注ぐ死の灰(放射性降下物)を浴びて被爆し、その半年後の9月23日に無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が放射能病で亡くなったことである。もう一つは、9月26日に日本海側を北上して北海道西岸を掠めた台風15号(通称“マリー”)により青函連絡船の洞爺丸が函館湾沖で沈没し、1155名が死亡するという日本海難史上最大の大惨事(タイタニック号に次ぐ世界海難史上2番目)が発生したことだ。
 この洞爺丸沈没の海難事故は、日本列島を陸路で結ぶ目的で昭和10年代に構想された本州と北海道を結ぶ青函海底トンネル(1946(昭和21)年に地質調査開始)の早期完成への必要性を強調・啓蒙する結果をもたらした。
 そして、構想から半世紀近くを経た1988(昭和63)年3月13日に供用を開始した青函トンネルは、当初、在来線規格で進められたが、1970(昭和45)年5月に全国新幹線鉄道整備法が制定されたことにより線路規格が見直されることになり、新幹線規格に変更されて起工(1971(昭和46)年11月14日)された。現在、2015年度の開業を予定に新青森~新函館(仮称)間で建設工事が着々と進む北海道新幹線だが、青函トンネル開業から27年を経過して初めて新幹線が津軽海峡を越え、北海道へ到達することになる。

画像
                      〈 台風15号で七重浜沖に沈んだ青函連絡船洞爺丸・1954.9.26 〉
台風の通り道でもある九州鹿児島県の大隅半島に上陸後、猛スピードで列島を縦断して日本海へ進んだ台風15号による暴風雨の影響で函館発14時40分の出航を見合せていた青森行き青函連絡船第4便(洞爺丸・4337㌧)は、風雨が弱まったと判断され1954年9月26日18時39分に函館港を出港した。しかしながら、函館湾内を出て間もなく台風の吹き返しから急速に風が強まり、異常に高まった波浪により船尾の貨車航送用車輌甲板の開口部分から大量の海水が船内に侵入した洞爺丸は函館港外の七重浜沖で転覆・沈没し、乗客・乗員合わせて1千人を超える犠牲者を出す大惨事となった。
 同日は、洞爺丸の他に、台風を避け函館湾沖に避難していた貨物連絡船のうち日高丸、第11青函丸、北見丸、十勝丸の4隻も強烈な波浪の下で相次いで遭難・沈没し、乗組員ともに多数の客車や貨車が津軽海峡の海に沈んだのである。
画像 その日はまた、時をほぼ同じくして、青函連絡船の洞爺丸が函館港を出港した少し前の18時15分頃、積丹半島の西海岸部に位置する岩内町でアパート住人の失火から火災が発生し、折からの台風15号によるフェーン現象を伴った暴風で火災は瞬く間に町中に燃え広がり、3299棟が焼失して33人が死亡し500人余りが負傷するという大火が起きた。しかし、これほどの大火でありながら、日本最大の海難事故として大々的に全国に報道された洞爺丸沈没事故の陰に隠れて、その報道は新聞の片隅に小さく載っただけであった。しかし、この“大火”が後に、推理小説としてつとに知られる「飢餓海峡」を生むことになる。
 この推理小説「飢餓海峡」は、作者の小説家・水上勉氏がとある講演会の講師にと招待を受け、1961(昭和36)年の秋に北海道を訪れた際に岩内町の大火のことを耳にされて興味を抱かれ、それが発端で構想された作品であると言われている。
 余談だが、小説として書き下ろすにあたって作者の水上勉氏は、1954年に起きた洞爺丸事故と岩内町大火の二大惨事を同小説の低流に据え、その舞台を終戦直後の1947(昭和22)年9月20日に戻し、洞爺丸を“層雲丸”に、岩内町を“岩幌町”に架空化して物語を展開させている。

画像
                          〈 龍飛﨑・津軽海峡を隔て北海道を望む 〉
JR津軽海峡線の青函トンネルの海底部に在る竜飛海底駅、そのほぼ真上に横たわるのが龍飛崎(竜飛崎とも表記、通称“竜飛岬”)である。津軽国定公園(青森県)の一部である龍飛崎は、津軽半島の最北端にあって津軽海峡に突き出し、海峡を挟んで対岸の北海道と対峙する。海峡幅はおよそ20km、その海面下240㍍の海底下を青函トンネル(長さ53.9kmのうち海底部23.3km)が貫き、JR津軽海峡線がかつての青函連絡船が4時間をかけて結んでいた本州~北海道間の津軽海峡をわずか10~15分余りで越えている。
 海から一日中強風が吹きつける土地柄の龍飛崎は、日本有数の強風地帯であるが、その強風を利用した風力発電が行われており、その規模(11基の風車)は日本最大である。しかし、冬の季節ともなれば、日本海から吹き荒ぶ平均風速20㍍を超える寒風が岬の矢面に立つ龍飛崎を吹き抜け、雪も飛ばされて深く積もることはないという。
 この地を初めて訪れた小説家の太宰治は、紀行文「津軽」の中で貧困地であった竜飛村落を“本州の袋小路”と言わしめた。その竜飛村落(2005(平成17)年3月の町村合併で外ヶ浜町に)は、江戸時代には蝦夷地(北海道)への渡航地として松前藩の本陣が置かれるなどして大層賑わったされる。しかし、明治時代になって青森~函館間に定期航路が開かれたことで寂れ、それを境に半世紀前まで竜飛地域は不毛の地に近かった。
 そんな竜飛地域が、1966(昭和41)年に本州側で始まった青函海底トンネルの調査斜坑掘削工事に伴って龍飛崎が建設基地となったことから、関連施設(宿舎、学校、飲食店など)が建設されて人口も大幅に増え、俄に活気づいた。しかしそれも、歴史は繰り返されると言われる如くに、青函トンネルが開通するとトンネル景気で沸いた賑わいは瞬く間に去って行った。されど、龍飛崎から基地の町は消えたが、風雪が高鳴る季節が訪れてもその地は最早昔の“本州の袋小路”ではなかった。
 龍飛崎には、「津軽海峡・冬景色」の歌碑が建つ。今も、碑の前のボタンを押せば、あの聞きなれた“ごらんあれが竜飛岬~”の歌が流れる。勿論、歌手の石川さゆりさん(当時18歳)が1977(昭和52)年1月に歌い、大ヒットした曲だ。1980(昭和55)年に当時の三厩村(現・外ヶ浜町)の体育館で開かれた石川さゆりさんのコンサートでは、入場しきれない人が出るほどの盛況で、拍手がいつまでも響いていたという。ちなみに、「津軽海峡・冬景色」の大ヒットで石川さゆりさんは1977年のNHK紅白歌合戦に初出場し、その後も連続して出場を果たし、第63回目を迎えた今年(2012年)の紅白歌合戦にも石川さゆりさんは連続35回出場の実績を引っ提げ出場する。
画像
青函トンネルの完成により1988(昭和63)年3月13日にJR津軽海峡線が待望の開業を迎え、さらに同年4月10日にはJR瀬戸大橋線が開通して日本列島が一本の交通体系で結ばれ、新たな列島の時代を迎えた。しかしその裏で、同年3月13日に80年の歴史を歩んできた青函連絡船がその使命を終え、また、78年の歴史を持つ宇高連絡船も同年4月10日にその使命を終えている。
 4時間に余る、津軽海峡を連絡船で渡ったかつての青函連絡船の旅情は、格別な感動を与えてくれたものだ。そして、連絡船航路の中でも津軽海峡の大海原を行く青函航路の醍醐味はこれまた白眉で、旅の風物詩として旅人の心に深く残っていることだろう。
 本州と北海道の間には、上野~青森間の鉄道全通(日本鉄道会社・1891(明治24)年9月)に先立つ18年前の1873(明治6)年に定期航路が開設されたが、1908(明治41)年になって国鉄の直営により青森~函館間に青函連絡船の航路が開設(同年3月)された。以来、実に80年間にわたって津軽海峡を往来してきた歴史を持つ青函連絡船であったが、当然の如くにそのような長い歳月の過程には紆余曲折もあったろう。
 太平洋戦争末期、津軽海峡における空襲(1945(昭和20)年7月)で米軍機による空爆の集中攻撃を受けた青函連絡船は、翔鳳丸、飛欒丸、津軽丸、松前丸の客船4隻と、第一~第四および第十青函丸の貨物船5隻が沈没した。この空襲で、船舶と共に乗組員150余名が殉職している。前述した台風15号による津軽海峡における大規模な海難事故といい、青函連絡船を支え続けたかつての津軽海峡の歴史は波瀾万丈であった。

画像
                           〈 ありし日の青函連絡船・洞爺丸 〉
津軽海峡の歴史を語る上で代表的なエポックとなるのは、青函連絡船が歩んだ歴史であろう。その青函連絡船に小学生の頃から馴染んできたという、1938(昭和13)年に青森県で生まれたルポ・ライターの鎌田慧氏は、「青函連絡船・海峡の罐焚き」(『国鉄に生きてきた』(JICC出版局・1986.11)の中の1編)と題したルポの中で、同氏が青函航路に寄せた想いを綴った序文を以下に引用(原文の一部の文字を漢字に換えてあります)させていただき、“余話”の終わりにしたい。
・・・ 『日本列島を北上してきた東北本線と奥羽本線の終点は、青森である。そこからさらに北を目指す乗客は、長い跨線橋を渡って青函連絡船に乗り換える。貨車もまた、引込み線を伝って同じ船の船腹に呑みこまれる。
 長声一発。船は気づくともなく岸壁を離れ、対岸の函館を目指す。四時間半の船旅である。たいがい私は、デッキに面した喫茶店のソファに座ってコーヒーをすすりながら、本を読んだり、原稿を書いたり、疲れると青森県や北海道の半島の影を目で追いながら、日ごろ喪われがちな緩かな時を過ごす。
 小学生の頃からこの連絡船に馴染んでいたとはいえ、長閑な風景をつくりだしているこの大型客船を支えてきた火夫たちの存在に気づくことはなかった。彼らは船の底にいて、巨大な罐の貪欲な食欲を満たすため、五十度にも上る高温と粉塵の中で必死にスコップを振るい、スクリューを回転させてきたのだった。船底での火夫たちの労働は、乗客の目に触れることなく、姿を消していった。 (注・連絡船の動力機関が蒸気機関から内燃機関へ変わった)
 国鉄の歴史の中に、塩を舐め大量の水を飲みながら、船を動かしていた男たちの歴史があったのを、その存在が風前の灯になった今、私はようやく知ることができた。』 ・・・   (終)… 関連公開ブログ「上野発の夜行列車おりた時から」2007.10.19 …

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック