女性貨物運転士の“心意気”を振り返る

つて私が身を置いていた鉄道(西武鉄道)の貨物営業が、1996(平成8)年3月末日を以て80有余年にわたった歴史に終止符(実際上の貨物営業輸送の終焉は、1996年3月7日18時23分30秒横瀬駅到着の貨第1605列車を以てである)を打った。その貨物営業輸送の最終貨物列車のハンドルを握ることができたのは、21年半余りにわたって機関士として貨物輸送に従事してきた私にとっては、至極のことであった。鉄道を退職して15年になろうとしているが、今もその当時の記憶は脳裏に鮮明に残る。されど、あの時の感慨にも況して私の気持ちを高揚(半ば驚きの気持ちでもあったが)させたのが、貨物営業終焉の翌年(1997(平成9)年)に〝初の女性貨物運転士登場〟という話題を報じる新聞の大見出しに接した時であった。
画像                             〈 JR貨物運転士当時の石村麻紀さん 〉
性に対する差別を撤廃しようという世界的な動きが最も活発化したのは、1970年代後半から1980年代にかけた時期であった。1975(昭和50)年を「国際婦人年」と定めた国連は、同年メキシコで開催された世界会議で女性差別を排除するための「世界行動計画」を採択し、1976年から10年間を「国際婦人の10年」と定めて活動を実施に移した。こうした情勢の下で日本でも、1975年に「婦人問題企画推進本部」が設置され、1977(昭和52)年に国内の行動計画が定められた。その後、1979(昭和54)年に国連で「女子差別撤廃条約」が採択され、日本もこれに署名している。
 こうした国際的な女性差別撤廃の動きを受け日本では、1985(昭和60)年に雇用に係わる男女の差別禁止を定めた「男女雇用機会均等法」(以下均等法:法体系上の基本法)が制定され、今、その公布・施行から四半世紀が過ぎる。
 均等法は、年を追うごとに改正が重ねられてより現実的な指標の下に改善(1997年の改正で女性差別の禁止が明確化され、企業行動に対しその現状変革を促す国の支援、セクシャルハラスメント対応の義務化、母性健康管理の義務化などの明示)され、今日の女性の職場進出や働き方に対する選択の自由度向上につなげている。

等法の施行から1年余りを経た1987(昭和62)年4月1日に、国鉄改革により分割民営化され新会社(JR7社)へ移行した国鉄は、その終焉時点における職員(約27万7000人)のほとんどが男性で、女性職員は例外的な存在に過ぎなかったという。
 JR各社の内、企業経営が最大規模のJR東日本における従業員の男女比率はといえば、2011(平成23)年4月時点での従業員数5万9650人(単体)に対し女性は4400人と、1割にも満たない約7.4%である。ただ、この数字でも四半世紀前の国鉄時代に比べれば、驚異的ともいえるような女性の鉄道職場進出への伸びを示すものだという。しかしながら、本来鉄道が持つ職場の特質・特性があるにしろ、他企業との比較の下ではJRをはじめとする鉄道業界全体における女性の進出度(活用)はまだまだの現状にあるという。少しデータは古いが、日本の雇用者総数に占める女性の割合は約42.0%(2006(平成18)年)ほどだが、この数値を考慮するまでもなく鉄道職場への女性進出をさらに促進すべく環境の整備が待たれよう。
 ただ言えるのは、1997(平成9)年の均等法改正以降、女性進出の職域の開発が鉄道業界でも急速に進んだのは確かである。そして、駅業務は勿論だが、車掌や運転士といった運転業務分野への女性進出の姿を、今日では日常的に垣間見る機会が増えているのも事実だ。
 雇用に係わる全ての場面から男女差別の禁止を定めた均等法の施行から四半世紀を超えた今、かつて世間一般で“女性が鉄道で働くなんて…”と言われた時代は、もう遠い昔のこととなった。
画像 〈 乗務に就くある日の石村麻紀さん 〉
つては、油まみれ汗まみれの過酷な職場に過ぎなかった鉄道は、その近代化の下で職場環境は格段の向上と進歩を遂げた。そして、今から15年前の1997(平成9)年に、当時としては大きな驚きとして捉えられたが、鉄道の戦前戦後を通して電気機関車を操縦する初の女性運転士(JR貨物)が誕生した。この時を境に、鉄道創設以来男性独占の職場だった運転の現場(太平洋戦争中の特殊情勢下を除く)に、今では女性が続々と進出を果たしている。
 国鉄の時代であったときには、客車列車や貨物列車を牽く機関車の運転に直接携わる者は「機関士」と呼ばれ、機関士職として電車や気動車などの運転士とは一枚も二枚も格が上と見られ、仲間内でも憧れと羨望の的だったという。そしてまた、蒸気機関車全盛の時代から続く機関士職は、鉄道の中でも“最も男性的な仕事”の代表として誇示されてきた。しかし、そんなしがらみめいた機関士職も、JR化後には押し並べて「運転士」という職名に統一され、旧い因習の消滅につながった。
 そうしたJR化後において、鉄道職場の近代化と環境が整えられてきた中で1997年に、石村麻紀さん(当時25歳)がJRグループ初の女性運転士として登場したのであった。石村さんは、大学を卒業後の1996(平成8)年にJR貨物に入社、その1年後の1997(平成9)年に「甲種動力車操縦者免許」を取得して運転士となり、見習期間を経て1998(平成10)年1月からJR貨物大井機関区の運転士として単独乗務に就いた。
 当時、小柄な女性が制服・制帽に身を正し、白い手袋を着けた両手でしっかり保護棒を握り、大きな機関車の運転台へステップを凛々しく上っていく姿を大見出しで伝える新聞の一面に接したとき、機関士の現職を退いたばかりであった私の体の中を、何ともいえない爽快な微風が通り抜けた。今でも、あの時の、えも言われぬ感激が脳裏に強く焼き付いている。
 大学(法政大学)で経営工学科を専攻した石村さんは、JR貨物へ就職した当初の志望は情報システム関連の仕事に就くことだったという。ところが、新入社員歓迎会の席上で役員から“運転士をやってみないか”と、突然に声をかけられたという。その時は驚きもしたが、鉄道の貨物輸送が環境に優しいことに惹かれてJR貨物に就職したこともあって、負けず嫌いの性格が頭をもたげ好奇心とも相俟って手を挙げていたという。
 そして石村さんは、EF200形やEF210形の最新鋭機関車をはじめ数形式の電気機関車に乗務し、小柄ながらきびきびした運転操作で500mにも及ぶ長蛇の貨車を従え、たった一人で昼夜の東海道線や根岸線を走った。カーブ走行時の後方確認(後方反顧)で、500m以上も離れた最後部の貨車が見えたときには、何時も後に従う長い貨車の列に胸を熱くしたという。
 “これから女性運転士が増えて、いつか東京~九州間を女性5人乗り継ぎなんてことが出来ればいいですよね…”と、夢を語っていた石村さん。小柄な体で長大な貨物列車を引っ張るJR初の女性運転士の健闘に、女性の職場進出に挑戦する「心意気」を強く感じもした。あのときから14年、JR貨物をすでに退職された石村さんは今、2児の母親として忙しい毎日を送られているという。

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                         〈 最新鋭機関車を運転中の石村麻紀さん 〉
道一筋の人生を送った、鉄道員の頑な生き様と哀歓を描いた映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999(平成11)年制作)の監督・降旗康男氏は、“鉄道の職場に女性が進出するのは時代の流れで、当然のことでしょう。私は、あの映画で年功序列・終身雇用社会の20世紀を生き、それが終わっていく姿を一人の鉄道員を通して描きました。女の子が生まれて、「ぽっぽやにはなれないね」というセリフがありましたが、あれも20世紀のもの。21世紀にはあんな映画は作れないですよね”と、いみじくも当時を振り返りつつ話している。
 21世紀に入って、昔風にいうところの一昔が経つ昨今だが、鉄道の職場を変え、鉄道の新しいイメージづくりに挑戦しようとしている“女性ぽっぽや”たちの心意気が顕著だ。 (終)

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この記事へのコメント

札タコ
2015年08月13日 10:06
素晴らしい女性乗務員時代の到来,応援の拍手を贈りたいですね。
そして西武の「赤い電機」たちの過去の活躍にも万来の拍手をいたします。

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