追憶・三河島事故から半世紀

 5月が巡り来ると、決まって想いを寄せずにはいられないことが、私にはある。半世紀も前の、あの大惨事・三河島事故だ。
 今私は、鉄道を退職して10年余りが経つ悠々自適の身だが、かつて在職中にあって列車乗務員の発令を受けた1962(昭和37)年5月にまさしく驚愕を禁じ得なかったあの大惨事が起きたからにほかならず、同時に、私の40年余りにわたった鉄道員生活における安全堅持の低流に教訓として常に存在していたからである。

 1962(昭和37)年5月3日の夜(21時37分頃)、当時の国鉄総裁(第4代)であった十河信二氏(1884~1981)が東海道新幹線の建設に情熱を傾けていた最中に、後の列車の安全運転に対する見直しへ大きな契機となった「三河島事故」が起きた。今まで機会あるごとに、当時の国鉄常磐線三河島駅構内で起きた“三河島事故”と称される列車二重衝突事故については様々な方面で数多の記述がなされてきてはいるが、敢えて同事故の概要についてここに略記してみる。

画像
                    〈 国鉄常磐線三河島駅構内列車二重衝突事故・1962.5.3 〉
 ~ 田端操車場を出発した下り貨物列車(第287列車・D51364+貨車45両)が本線(常磐線)へ合流するため三河島駅へ向かったが、同駅出発信号機の停止信号を冒進して本線合流地点の安全側線に突入、蒸気機関車と次位のタンク貨車が脱線して傾き、隣接の下り本線を支障してしまった。その直後に、三河島駅を4分遅れで発車し下り本線を進行していた上野発取手行き下り第2117H旅客電車(6両編成)が下り本線を支障していた貨物列車に接触し、前部2両の電車が脱線して隣接の上り本線を支障した。この最初の事故で、下り電車の乗客の多くが非常ドアコックを扱ってドアから線路に降り、上り本線上を三河島駅方向へ歩き始めていた。
 下り電車の脱線から約6分ほど経ったときに、三河島駅へ向け進行中であった上野行き上り第2000H旅客電車(9両編成)が前方を支障していた下り電車を認めて非常ブレーキを扱うも及ばす、脱線していた下り電車に衝突して上り本線を歩行中の乗客を巻き込みながら先頭車両は築堤下に転落して粉砕、続く3両も転落または脱線して大破した。この列車二重衝突事故により、死者160名・重軽傷者296名を出すに至った。

 以上が、悲惨をきわめ大惨事となった三河島事故の概要である。

 当時の三河島駅では通常、下り電車が先発した後に、下り貨物列車が下り本線に隣接する貨物線を通過して本線へ合流し、続行運転するダイヤ(運行)であった。しかし、事故当日は憲法記念日の祭日とあって、都心方面は夜になっても混雑が続いていた。その影響もあって、下り方面への電車に遅れが出ていたため三河島駅においては通常とは異なる状況となっていたのである。いつもの運転状況であれば、下り貨物列車はほとんど三河島駅では停められることはなく、電車に続行して通過する運転が常態であった。そうしたいつもの運転感覚から下り貨物列車の機関士は、場内信号機の注意信号を認めながらも、少し経てばそのうち出発信号機はいつものように通過の信号に変わるだろうと漫然と運転を続けたのである。しかし、出発信号機は“進行”を示さなかったのだ。
画像 田端操車場から三河島駅を経て常磐線の本線へ出る貨物列車は、築堤上にある三河島駅へは貨物列車にとってきつい上り勾配(12‰)に挑まなければならず、一旦停止してしまうと引き出し(再起動)が困難を極めるので機関士らは常日頃から列車をなるべく止めないで済む運転操作に気持ちを集中させた運転を心掛けていたのである。ところが、いつも行ってきた運転操作が、この5月3日には裏目に出てしまったのだ。

 この三河島事故は、列車運転の安全を司る従来の車内警報装置に自動停止機能を付加したATS(自動列車停止装置)の国鉄全路線導入(1966(昭和41)年3月完了)をはじめ、運転取扱規程(運転取扱心得)の見直しや業務管理体制・指導訓練の強化、各種安全設備の改良・新設、乗務員の労働環境改善、鉄道労働科学研究所(事故防止や安全確保に資する心理学・医学・人間工学などソフト面からの究明)の設立など、鉄道事故防止に対するハード・ソフト両面からの研究着手に大きな契機となった。しかし、それ以上に同事故が国民に与えた衝撃は大きく、当時の国鉄の安全体質が厳しく問われた事故であった。
 事故後、空白の“5分間”とも“6分間”とも言われて事故責任追求への論議の的となった、下り電車の脱線から上り電車の進入まで約6分もの時間がありながら列車乗務員も三河島駅職員のいずれも上り電車に対する停止手配(列車防護)を取らなかったことが、当該事故の犠牲者を多くしたとも言われた。同時に、人為的事故であるとして、当時の国鉄の“タルミ”が強く指摘され、安全対策の不備が浮き彫りにされた。当然に、十河国鉄総裁の責任が問われた。

画像
                     〈 三河島事故現場で手を合わせる十河国鉄総裁・1962.5.4 〉
 当時は、第2代国鉄総裁の加賀山之雄氏が、1951(昭和26)年4月24日に起きた“桜木町事故”(作業の不手際から架線が断線垂下し、桜木町駅に進入中の電車のパンタグラフが架線に絡まって列車火災が発生、106名死亡・92名負傷)の責任をとるかたちで引責辞任。その桜木町事故の後を引き受けた、続く第3代国鉄総裁の長崎惣之助氏もまた、1955(昭和30)年5月11日に濃霧の瀬戸内海で起きた“紫雲丸事故”(宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧の中で貨物船の「第3宇高丸」と衝突し、小中学校の修学旅行生らを含む168名の死者と122名の負傷者を出した。台風15号で沈没し1155名の犠牲者を出した青函連絡船「洞爺丸」事故に続く国鉄の連絡船事故であり、少年少女の若い命が多数失われただけに世論の非難は厳しかった)の引責により退陣し、2代続けて国鉄総裁が引責辞任していた。そうした状況下にあって十河総裁は、「事故をなくすことが責任をとることだ」と言明し、三河島事故の被害者宅を一軒一軒詫びてまわり、総裁の地位に踏みとどまった。
 辞任した長崎総裁の後任として政府から白羽の矢を立てられ、第4代国鉄総裁に就任(1955(昭和30)年5月20日)した十河氏は、その時すでに71歳の長老だった。総裁就任直後に報じられた毎日新聞の「時の人」欄には、「十河氏は戦後全く表面に姿を見せなかった。国鉄総裁就任と発表され、満州事変前後に満鉄理事としての華やかな活躍を知っている人でさえ“まだ生きていたか”と驚くほど“沈黙生活”を送ってきた」と記されていたほどに、世間からは過去の人と思われていた30年近く前の国鉄OBであった。それ故に、“鉄道博物館から引っ張り出されたオンボロ機関車”といった世論の酷評も受けたが、十河氏は「赤紙を受けて戦場へ行く兵士のつもりだ。鉄路を枕に討ち死にする覚悟」と、“大時代的”な言葉で切り返した。その十河氏は、老骨をひっさげ国鉄への最後の“御奉公”をと決意し、総裁を引き受けたとされている。

 第2代加賀山総裁時代に起きた桜木町事故で、工作局長としての責任を問われて国鉄を退いていた島秀雄氏(当時住友金属工業取締役)を技師長(副総裁格)として国鉄に呼び戻した十河総裁は、1956(昭和31)年5月に島技師長を会長とする東海道線増強調査会を国鉄本社内に設置し、輸送力が行き詰まっていた東海道線の改革に対する検討を始めた。一方、1957(昭和32)年5月には、東京・銀座の山葉ホールで鉄道技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)創立50周年記念講演会が開かれ、東京~大阪間を3時間で結ぶことが可能であるという国鉄技術陣の構想が披露され、世間に大きな反響を呼び起こしていた。
画像          〈 東海道新幹線起工式 鍬入れを行う十河国鉄総裁・1959.4.20 〉
 この話を耳にした十河総裁は、このときに東海道本線の広軌(標準軌)別線による幹線建設推進の腹を固めたと言われている。この別線高速鉄道建設案は当時、すでに世界の主要国で鉄道の斜陽化が根強く論じられていた中にあって、いまさら高速鉄道建設のために巨額の投資を行うことは戦艦大和や万里の長城と並んで、巷では“世界の三馬鹿”とまで言われて蔑まれた。
 そうした中で、1958(昭和33)年3月に広軌別線案妥当との結論が政府機関の日本国有鉄道幹線調査会から出された。そして、翌年4月20日に東海道新幹線の起工式が十河総裁による鍬入れの下に新丹那トンネルの東京方坑口で挙行され、建設への賛否両論が渦巻く中でオリンピック東京大会開催の時を完成目標に建設工事着手となった。

 しかしながら、この東海道新幹線開業(1964(昭和39)年10月)を境に国鉄の財政は、その後、国鉄改革(1987(昭和62)年4月の分割・民営化)に至るまで20年以上にもわたって赤字体質の淵から這い上がれずに、その流れに呑み込まれたままであった。
 東海道新幹線は、世界銀行からの借款を含め1972億円の建設予算でスタートはしたものの、度重なる工事費の高騰や設計変更などにより国鉄から国への再三の予算追加の申し出がなされ、最終的に総工費は3800億円と当初予算の2倍に膨れていた。もともと当初の予算程度でこと足りるとする考えはなかったらしく、最初から高額予算の提示では建設工事そのものが認められそうにない状況にあったことから、段階的に予算の補正を請求していたのではと見られていた。そして、オリンピック東京大会を目標に進められていた東海道新幹線の開業まで1年半と迫った1963(昭和38)年の春、十河総裁の第2期任期切れを直前にして建設予算不足の過程が表面化し、国会での総裁の責任追求となった。これが発端となって、世界初の高速鉄道建設に情熱を傾けてきた老総裁ではあったが、せめて新幹線の開業まで総裁の椅子にとどめておいて然るべきとの人情論もあったが、最終的に政府は東海道新幹線の開業を待たずに1963(昭和38)年3月に“再任せず”と発表したのであった。
 総裁在任中に起きた三河島事故の大惨事の責任を問われながらも、事故防止への強い信念を貫いて総裁の椅子に踏みとどまった十河氏ではあったが、後に“東海道新幹線生みの親”として語り伝えられることになるのだが、皮肉にもその新幹線が命取りになったかたちで「老兵の消えて跡なき夏野かな」と心境を詠み、1963(昭和38)年5月19日に2期8年務めた国鉄総裁を退任し、国鉄を去っている。次期第5代国鉄総裁には、前十河総裁が三河島事故で責任を問われていたときに「絶対に辞めてはいけない」と十河氏をかばったとされる、当時の国鉄監査委員長だった石田禮助氏(当時77歳)が就いている。
画像 〈 東海道新幹線出発式・1964.10.1 東京駅 〉
 1964(昭和39)年10月1日に、第4代十河国鉄総裁と島技師長が手塩をかけた東海道新幹線東京~新大阪間が開業した。東京駅で、新幹線一番列車〈ひかり1号〉の出発式が挙行されたが、“夢の超特急”のテープを切るまではと総裁として国鉄に心血を注いできた彼の十河氏は招待されなかった。出発式で、テープにハサミを入れたのは、十河氏の後を継いだ石田総裁であった。“夢のテープカット”はついに叶わなかったが、同日、国鉄本社に天皇皇后両陛下をお迎えして行われた開業式場に、感無量の面持ちをたたえた十河氏の姿があった。
 生みの親の手を離れ、育ての親へと引き継がれてきた新幹線の道程は、すでに70年を超えた。新幹線は今、北は北海道から南の九州までが一本の線で結ばれる瞬間をまもなく迎えようとしている。

画像

 折々に私は、三河島事故の慰霊碑が建つ三河島駅の北に位置する浄正寺(東京都荒川区)を訪れているが、そのたびに、当時一鉄道員として受けた衝撃が脳裏を過るのである。犠牲になった乗客たちの名前が碑の銅板に刻まれているが、最後の列に刻まれたところには「氏名不詳」とあり、三河島事故の悲惨さが偲ばれていつも胸が痛む。同時に、慰霊碑を前にするたびに、三河島事故の重責を抱え、その重荷に耐え凌いでいた当時の十河国鉄総裁の胸の内を慮るにはいられない心境になる。 (終)

関連公開ブログ…「鉄道の風景・あれから…」2008.3.19、 「生みの親 東海道新幹線」2008.2.3、 「国鉄総裁…2代続いた引責辞任」2009.3.10

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 24

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

大武理菜
2019年05月27日 18:58
玉井詩織
増井みお
2019年05月27日 18:59
千歳ひとみ
河上夏子
2019年05月27日 18:59
川田裕美
新川崎駅
2019年05月27日 18:59
新川崎駅
三河島駅
2019年05月27日 18:59
三河島駅

この記事へのトラックバック