“広 電”有情 (広島電鉄)

終戦65年の夏に寄せて・・・

 15年に及ぶ戦争に終止符が打たれた1945(昭和20)年8月15日、敗戦による荒廃と虚脱状態の中にあっていち早く汽笛を焦土に響かせ、「汽車が動いている」という一縷の安堵と喜びの感動を国民に与えた国鉄の底力は、65年経った今も戦後の語り草として伝えられている。また、“広電”の愛称で広島市民の大切な日常の足となっている路面軌道の広島電鉄も、あの忌まわしい1945年8月6日の原子爆弾の投下にもめげることなく、被爆した車両の中から使用に耐えるものを極力集め、被爆後の3日間を運転休止しただけで一部区間の運転を再開した。戦禍を負いながらも力の限りに走る市電の姿は、全くの焦土と化した広島市街の復興と、心身ともに疲弊の極みにあった市民の鼓舞に、一役も二役も貢献したという。

 海に向かい、6つの支流に分かれる太田川流域のデルタ地帯に開けた広島市市街は、川や橋、緑の公園、ビル群が織りなす、忌まわしい原爆被災から立ち直った近代的な街である。JR広島駅から1kmほどの西方に位置する中心市街地へは、市内を東西南北に走る路面電車が便利だ。通称“広電”は、全8系統・全長35.1kmの軌道敷を頻繁に運行(平日1日利用者数約11万人)している。

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 その広島電鉄に2003(平成15)年の夏、女性の路面電車運転士が誕生して紅一点的な新鮮さから話題を呼んだが、今から65年以上も前に日本が敗戦(太平洋戦争)への道を突き進んでいた時代にも、女性の運転士が同電鉄にいた。
 その女性運転士たちは、まだあどけなさが残る15~17歳の女子学生だった。平成の平和な下での広島電鉄で、路面電車を運転する女性運転士の姿は、広島で戦時体験をした世代の人たちに郷愁にも似た青春の在りし日の情景を ~原爆投下直後の廃墟の街で、あの夏の日、健気に路面電車を運転していたあどけない面持ちの女子学生たちの姿を~ 想い起こさせる存在ともなっていた。

画像 当時、その女子学生運転士の一人だった、現在は広島県福山市に在住の“ある女性”(81)は、遠い記憶を頼りに語る。尋常小学校の卒業を前に先生から、電車の車掌をしながら勉強ができる学校(広島電鉄家政女学校・1943年開校)が始まると広島電鉄からの知らせがきたが、行きたい生徒はいないかと言われた。卒業後の徴用で、どうせ軍需工場で働かされるぐらいなら、寮もあって、授業料は車掌として働く給料で賄えるというのだから、車掌になった方がいいと思った。
 15歳の春、親元を離れて山奥の田舎(広島県東部の神石高原町)から初めて広島へ出て、第1期生72人の一人として戦時下の1943年4月に家政女学校の門をくぐった。ほとんどの女子学生は、広島や島根の農山村からの少女たちだった。
 1日の半分は車掌として働き、残りの4時間が授業に充てられた。戦時下で、一緒に学び働く女子学生たちの毎日の生活が、そのような課程の下でしばらく淡々と続いた。ところが、戦争が激化してくるに連れ男性運転士の出征が続き、運転士不足が生じるようになった。その不足を補うため、女子学生の彼女らに車掌から運転士への転身が回ってきた。約1週間ぐらい、男性運転士の脇で運転の仕方を見学し、それでは運転してくださいと言われて運転士の業務に就いたが、免許証なるものなど何もなかったという。
画像 まだあどけなさを残す、ういういしい女の子が路面電車を運転していれば、戦時下といえども当然に、男子学生が放っておかなかったという。“ある女性”にも、その頃、チラッと目が会えば笑顔で会釈し合う気になる男子学生がいて、優しそうなその人は自分のことを好きなのかな、と思ったりもしたという。
 乗務中に一度、名前を呼ばれて声をかけられたが、あまりの恥ずかしさにほとんど話ができなかったそうだ。紺の角帽を被ったその彼を、8月(1945)5日に広島駅前で乗務中の運転席から見かけたが、それが彼を見た最後だったという。
 翌日、広島駅で運転台に立ち、電車を発車させた直後に被爆した。その後、幾度かの奇跡と偶然に引き戻されて生き延びることができた“ある女性”は今、被爆体験の語部として、自身が遭ってきた戦禍を若い世代に伝えるべく活動に勤しんでいる。

 …舞台は1945年夏の広島、女子学生たちが出征した男性運転士に代わって、路面電車の乗務に就く。慣れない仕事に戸惑い、ときには恋をしながら、やがて運命の8月6日を迎える… 市街地を走る路面電車内で繰り広げられる、「桃の実」(5人の団員による表現集団)が演じる被爆劇だ。
画像 「桃の実」は、終戦後間もなく廃校となった広島電鉄家政女学校を素材に、戦時下においても普通に青春を楽しもうとする当時の女子学生の生き方を実話を織り交ぜて演じ、2006(平成18)年の初演以来広島や長崎等において公演を続けている。電車の揺れに合わせて演じた長崎では、被爆者で元運転士だったという老齢の男性が号泣し始め、あの時の忘れることのできない悲惨な惨状がこの人の目には映っていると感じた瞬間、車窓の景色が変わったように見えた、と演者は語る。

 1912(大正元)年に開業した広島の路面電車は、常に市民の足として長い歴史を積み重ね、戦後には国内外の都市からさまざまなタイプの路面電車を譲受し、広島市の名物風景の一つともなっている。そこには、戦時中の面影など微塵も感じられないほどに復興した、広島の街並みが在る。
画像 車窓から見る世界遺産の原爆ドームや平和記念資料館、広島城、比治山公園などは、広島電鉄の利用者にとっては日常の光景だ。その広島市民の日常を支え続ける“広電”の歴史を刻んできた軌道敷は、あどけない面影を秘めて路面電車の運転台に立ち続けた女子学生運転士たちが、青春を賭けて踏みしめた戦時下の、あの65年前を知っている。 (終) 朝日新聞記事参照

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