真夏の朝の大惨事(八高線多摩川鉄橋列車事故)

プロローグ ・・今年もまた、終戦記念日が巡る。敗戦で迎えた終戦の日の1945(昭和20)年8月15日は、真夏の太陽が日本列島を照りつけていた。この太平洋戦争の爪痕は、他の産業と同様に、鉄道にも甚大な荒廃をもたらして無残な様相を鉄路に残した。しかし、敗戦に打ち沈み国民が虚脱状態の中にあったとき国鉄は、戦禍にもめげずに輸送に対する底力を以てよくその任に堪え、いち早く汽笛を焦土に響かせていたのである。この“汽車が動いている”という感動は、まさに心身ともに疲弊しきっていた国民の生活に希望を与え、日本の再出発を告げるかのようであったという。
 廃墟に響いたこの“汽笛”は、蒸気機関車が関東の西部を山際に沿って南北に走っていた国鉄八高線においても、こだまとなって周囲に響いていたのである。

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                         ( 富士山を遠望して電化区間を行く八高線 )
 現在の八高線(JR東日本)は、東京西部の八王子から埼玉県を北上し、群馬県倉賀野を経て高崎線に合流して高崎へ至る96.4㎞に及ぶ全線単線の路線である。八高線自体は、八王子~倉賀野間92.0㎞の地方交通線だが、実際の運転は4.4㎞先の高崎駅まで乗り入れている。今から40年前の1970(昭和45)年頃までは、蒸気機関車による運転が東京で最後まで残っていた路線であるが、現在、八王子~高麗川間(31.1㎞)は電化線区となっており、その先高崎までは気動車による運転の非電化ローカル線区(65.3㎞)である。
 その八高線で、終戦直後の2年足らずの間に、国鉄の戦後列車運転事故史上5指に入る大事故が2件発生している。画像 ( 国鉄八高線東飯能~高麗川間列車脱線転覆事故・1947.2.25 )
 その一つは、1947(昭和22)年2月25日の朝7時50分頃に、東飯能~高麗川間で起きた列車脱線転覆事故である。
 終戦直後の食糧難の下、かつぎ屋や買い出しの乗客で超満員の下り第3旅客列車(C57形蒸機+客車6両)が20‰の下り勾配個所で速度超過に至って曲線部で脱線し、高さ5㍍の築堤下に4両の客車(木造)が転落して粉砕大破し、184人死亡・495人が重軽傷を負った事故だ。当時は、応召による機関士不足から戦時に急速養成された20歳前後の機関士(当時国鉄には約2万人の機関士が在籍)が半数を占めていたが、当該事故の機関士も速成養成による実乗務6ヵ月という技量の未熟から発生させてしまった、真冬の朝の大惨事であった。
 もう一つは、以下に概説を試みる事故で、国民の大半が敗戦のショックの最中にあった今から65年前の、終戦9日目の1945(昭和20)年8月24日午前7時40分頃に起きた、真夏の朝の大惨事である。

民が戦時の生活環境から抜け出しきれずにいた、終戦7日目の東京は曇天となり、夜に入って関東の西北部を激しい雨を伴った豆台風が襲った。8日目に入っても、時折の驟雨が続き、各地で出水騒ぎが起きていた。衰えを見せない風雨は、深夜になって風速を増し豪雨となって八高線の小宮駅(現・東京都八王子市)の小さな駅舎を震わせていた。
                          ( 電化前の八高線小宮駅 ) 画像
 1945年8月24日午前4時半、激しい風雨でまんじりともせずに起床した小宮駅の駅長はじめ駅務員は、列車運転の要である閉塞装置や鉄道電話が不能に陥っていることを知り、孤立状態に驚愕した。小宮駅から八王子駅・拝島駅双方への連絡通信が完全に途絶してしまい、通票閉塞式(タブレット閉塞式)により旅客・貨物の列車運転を行っていた単線の八高線では、列車の正常運行が出来なくなっていた。
 指導式(施行に関する取扱責任者は駅長)は、閉塞区間(1駅間)には1人の指導者(指導式を施行する両端駅長が打ち合わせて選定し、相互に職・氏名を記録する)を定め、駅長の指示に従って列車の機関士と同乗させることにより1閉塞区間1列車の運転を確保する代用閉塞式である。また、指導式により駅から最初に運転する列車を出発させるときには、その閉塞区間(駅間)に他の列車や車両のないことを確かめなければならないとなってる。すなわち、実際に人の目で確かめた後(駅務員の走行等により)でなければ、最初の列車を駅間に進入させてはならないのである。
 通信の途絶に陥った小宮駅の駅長は、指導式による閉塞式の変更と、所定の列車運転順序に従い拝島駅(現・東京都昭島市)からの上り第4旅客列車(東飯能駅始発)と八王子駅からの下り第3旅客列車(小宮駅下り一番列車)を当駅で交換させた後、八王子・拝島双方へ運転させる旨を駅務員に伝えた。そして、小宮駅長は午前5時20分頃に上り第4旅客列車の指導者に選定した駅務員を、午前5時30分頃に下り第3旅客列車の指導者に選定した駅務員を、それぞれ駅間の確認(列車・車両の有無)と打合せ(運転順序・指導者選定等)のため適任者として激しい風雨の中を双方の駅へ向け派遣した。
 ちなみに“指導者”と“適任者”は同一人物が選定されるケース(人的運用の効率上)がほとんどで、実質的には適任者=指導者の役目を持つが、指導者の選定には閉塞区間両端駅長の打合せが必要のため、相手駅との打合せ前では指導者となり得ないので、“適任者”と称するのである。そして、指導者自身は、通票閉塞式(常用)の通票(タブレット)に代わり当該閉塞区間における列車運転の“証”となる者(左腕に指導者腕章(赤色)を着用)である。また、駅間の途中で双方から適任者同士が出会ったときは、適任者間で打ち合わせた後、自駅に戻り駅長に報告することとなる。
 八王子・拝島両駅へ適任者を派遣した後の午前6時5分頃、八王子駅から打合せの駅務員を乗せた第7051単行機関車が小宮駅に到着した。この単行の蒸気機関車(天候または線路の状況等により適任者の走行派遣が困難なときには単行機関車を運転(徐行運転)することができる)は本来、東飯能駅始発の上り第4旅客列車を牽引するために同駅へ向かう回送機関車で、やがては小宮駅に上り第4旅客列車として戻ってくることになっていた。駅務員持参の打合せ票には「第7051単機伝令者、第3列車指導者」とあり、単行機関車に続いて下り第3旅客列車が小宮駅へ運転してくることを意味していた。

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( 正面衝突した双方の機関車と同形式の8850形蒸気機関車・新橋~下関間の特急列車の牽引機として東海道線新橋~沼津間で活躍したが、C51形式の誕生により2線級となり八高線などに転用され、1951年頃までに廃車となった )

王子駅からの打合せ票を見て小宮駅長は、この時、拝島駅へ走行派遣した適任者を途中で単行機関車に拾ってもらおうと、思いついた。小宮~拝島間(4.8㎞)は、徒歩となれば1時間前後はかかる。しかも、風雨の激しい中を進むとなればさらに時間はかかるはずで、まだ薄暗いであろう600㍍近い多摩川の鉄橋を渡らねばならず、危険が伴う。派遣した駅務員のことが、ずっと気に懸かっていたのだ。同時に、上り第4旅客列車牽引のために単行機関車が東飯能駅まで行くには約40分はかかり、折り返し上り列車を牽いて再び小宮駅に戻ってくるまでには、各駅の運転取扱や停車時分を加味すると1時間半はかかる。それに、八王子駅からの打合せ票によれば、間もなく下り第3旅客列車も到着する見込みである。そのまま所定通りに、第4列車の到着を待って第3列車と交換させて運転するとなれば、ただでさえ遅れている列車運行をさらに増延させる結果になると思い、間もなく到着するであろう下り第3旅客列車を直ちに拝島駅へ出発させた方が最善と考えたのだ。
 こうした考えに従って小宮駅長は、改めて拝島駅との打合せ(運転順序変更)を行わずに、独断で事を運んでしまった。同駅長は、自分のほかに1人残っていた女性の駅務員(19)に、「第7051適任者、第3列車指導者」と記入した打合せ票と運行順序を簡記した運行図表もどきの紙片を拝島駅長に見せれば分かるはずだからといって渡し、6時10分に第7051単行機関車に同乗させ拝島駅へ向かわせた。これによって小宮駅長は、拝島駅からの上り第4旅客列車の運転を押さえることができたと思った。ここに、小宮駅から拝島駅へ向け異なった打合せ票を携えた2人の適任者が派遣され、実質的に2人の指導者が存在することとなった。後刻、この2人の適任者(指導者)の派遣が拝島駅の混迷を招くことになるのだ。
 小宮駅を出発した第7051単行機関車は、拝島駅まで約1.5㎞地点で先に派遣された適任者を拾い、6時25分に拝島駅に到着した。単行機関車から降りてきた小宮駅からの2人の適任者が持ってきた各々の打合せ票を見て拝島駅では、運転取扱を巡って混乱を来した。2人の適任者が持参した打合せ票の内容が、拝島駅から上り第4旅客列車を運転する所定運行と、下り第3旅客列車が単行機関車に続行するという、異なったものであったからだ。
 この状況に対し、最初に派遣された駅務員が適任者は私一人のはずで、私が小宮駅へ戻らなければ下り第3旅客列車は運転できないはずだ、と当然の主張をした。これに対して、女性適任者の異なった打合せ票の内容に戸惑って理解しかねていた拝島駅の助役は、最初の適任者の主張を受けて所定順序が順当(上り第4旅客列車の運転)との思いに傾き、信号掛兼運転掛も適任者が小宮駅へ戻る(第4列車に指導者として同乗)までは下り第3旅客列車を出発させる訳がないと考えた。そして、女性適任者の打合せ票に疑問を抱いていたにもかかわらず、小宮駅へ事の真意を確かめる手立て・手配をせずに、女性適任者の打合せ票に記されている“第3列車”の列車番号は“4”の書き間違いではないかと勝手に推測してしまったのである。
 拝島駅の上りホームに、上り第4旅客列車の牽引に向かった単行機関車が始発の東飯能駅で蒸気圧力が十分に上昇しない状況に陥り、運転不能となった第4列車と入れ換わって先行した上り第6旅客列車(寄居駅発)が7時25分に到着した。そして、拝島駅の助役は指導者を主張する小宮駅からの最初の適任者を上り第6旅客列車の指導者として認めたのである。
 この運転順序変更に対する、小宮駅の思惑と拝島駅の一方的な判断が数分後に重大な結果を招来することになろうとは、誰が予測したろう。

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                        ( 事故の旅客列車と同形の旧型木造客車 )

宮駅から八王子駅へ派遣した駅務員を指導者として同乗させた、8869号蒸気機関車が牽く客車5両編成の下り第3旅客列車が午前7時36分に41分遅れて小宮駅に到着した。下りホームの先端で第3列車を迎えた小宮駅長は、機関車から降りてきた指導者の駅務員に、このまま拝島に向け指導者として行ってほしいと言って、運転順序変更等の経過を簡潔に伝え、再び下り第3旅客列車の機関車に同乗させた。これによって、1閉塞区間に1人の指導者と定めた規則の下で2人目の指導者選定に至ったが、小宮駅長は女性駅務員の適任者に持たせた打合せ票通りに自分の考えを推し進めた。小宮駅に30秒間だけ停車しただけで、下り第3旅客列車は午前7時37分に拝島駅へ向かって出発したのである。
 しかし、下り第3旅客列車が小宮駅を出発した時刻にはすでに、拝島駅に停車していた8853号蒸気機関車が牽く客車5両編成の上り第6旅客列車が小宮駅から最初に派遣された指導者を同乗させて、午前7時33分に小宮駅へ向かって発車していたのだ。こうして、単線の線路上を、上・下の旅客列車が双方の列車に向かって突き進んで行った。
 この2、3日来の台風混じりの大雨で、普段なら100㍍足らずの川幅の多摩川は、増水して逆巻く濁流と化した流れを川幅一杯に膨らませて、八高線の多摩川鉄橋を揺るがさんばかりに支える橋脚に黒い飛沫を噴き突けていた。多摩川鉄橋は、全長572.14㍍・橋脚数31の単線鉄橋で、鉄橋上はレールの中央部分に保線係員用の木板の通路が敷いてあるほかは、柵や手摺などの防護設備はなく、橋桁の両脇直下は橋脚を競り上がらんばかりの濁流が洗う川面だ。
 拝島駅を出発した上り第6旅客列車、その機関車のワイパーのない前面窓に、降りを強めた雨が風とともに大粒の滴となって吹き付けていた。右へのカーブを抜けると、直線の多摩川鉄橋を渡ることになる。左側の機関士席からは、右カーブの前方は死角となるため前途の安全確認を機関助士に指示をした。雨に煙る前方の鉄橋上に異状は認められなかった。鉄橋を渡り切った先は、小宮駅方へ15‰の上り勾配にかかるため予め加速を図って鉄橋に入り、上り第6旅客列車は約60km/hで鉄橋の半ばを驀進していた。機関士が、前方に大きな黒い塊を認めた瞬間には、衝突まで5秒も残されていなかった。
 小宮駅を出た下り第3旅客列車もまた、上り列車同様に右へのカーブを抜けて鉄橋に入るが、機関助士の前途異状なしを確認した機関車は約50km/hで鉄橋上を突き進んだ。ボイラーが運転室の前方に突き出た構造の蒸気機関車は、火室を挟んだ左右の機関士・助士席には前方注視の小さい窓があるだけで一般に前方の視界は芳しくなく、ワイパーも付いていない上・下列車の機関車の窓は吹き付ける雨粒で曇ったままであった。前方が全く見えない状態ではなかったが、激しい降雨に灰色に煙る薄暗い多摩川鉄橋上を対向する上・下双方の列車は、前方から進んで来る列車を直前まで互いに認めることができなかった。
 そして、非常ブレーキの暇がないほどの距離で相互に相手を認めた時には、約360人余りの乗客を乗せ60km/hの速度で進む上り第6旅客列車と約450人余りの乗客を乗せ50km/hの速度で走行する下り第3旅客列車はともに高い速度のまま単線の多摩川鉄橋上で遭遇し、拝島方392㍍・小宮方180㍍の地点で正面衝突してしまったのである。ときに、1945年8月24日午前7時40分頃であった。

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                      ( 国鉄八高線多摩川鉄橋列車衝突事故・1945.8.24 )

重量200㌧を超える旅客列車同士が、50km/hを超える速度で正面衝突した激突時の衝撃音は爆弾が落ちたのではと思われるような轟音を響かせて、降り続いていた激しい風雨の中で2㎞四方余りにわたって轟いたという。
 凄まじい衝突時の衝撃で、一瞬にして双方の機関車は圧砕し、上り機関車の先頭部は下り機関車の煙室を圧し潰して相互に食い込んでいた。下り機関車の炭水車は棒立ちとなって運転室を圧し潰し、機関車部分は飴のように変形して果てた。そして、両機関車の動輪部分はレールや橋桁に絡まるようにめり込み、その状況がどうにか鉄橋からの両機関車の転落を防いでいた。
 後続の客車は、上り列車にあっては1両目の客車が衝突の瞬間に後方に続く客車に押され、機関車との間にプレスされたかたちで粉砕し、鉄橋上に存在の痕跡を見出せないほどに濁流の中へバラバラの塊となって乗客とともに落下した。2両目は、粉砕した1両目に衝撃して先頭部分が圧し潰れたもののかろうじて鉄橋上に止まり、3両目以降も損傷したが転落を免れている。下り列車では、1両目は2両目の客車に乗り上げられ下敷きとなって粉砕し、台車だけを鉄橋上に残して濁流の中へ乗客とともに散っていった。1両目に乗り上げた2両目の客車は、傾いた状態で鉄橋上に止まり、3両目以降は上り列車同様にレール上に残った。上・下の列車とも、3両目以降の客車が凄まじい衝突にもかかわらず鉄橋上に止まることができたのは、おそらく前部客車の粉砕によって衝突時の衝撃が吸収・緩和されたからであろう。また一方、ほとんどの客車が30年を超えた大正中期頃の老朽化した木造客車であったことが、衝突の現場を凄惨にしていた一因でもあったろう。

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          ( 国鉄八高線多摩川鉄橋列車事故の正面衝突概要略図・『「大列車衝突」の夏(舟越健之輔著)』より抜粋 )
 この正面衝突事故で、機関車の機器等に衝撃したり外へ飛ばされ濁流に呑まれていった双方機関車の乗務員と指導者として同乗していた駅務員全員を含む104人が死亡し、行方不明者20人(推定)、重軽傷者約150人を出し、鉄橋上の大惨事であったため犠牲者等の正確性は期し難かった。終戦後わずか9日後のことで、乗客の多くは帰郷する復員軍人や疎開先から戻る人々であったが、客車もろとも激流の多摩川へ転落したり、客車から投げ出され濁流に呑まれて下流へ運ばれていったりしたため、犠牲者等の確認・把握には大変な困難を伴った。犠牲者の中には、約40㎞下流の東京湾近くまで流され、事故から1ヵ月を過ぎて発見された乗客もいたほどだ。
 事故後の復旧も、単線路の鉄橋上とあって大変に難航した。走行可能の客車は、八王子・拝島の双方へ収容し、鉄橋上に残っている上・下双方の機関車と損傷した客車2両を撤去することになった。
 当初は、操重車の出動(神奈川県新鶴見操車場から)を待って、クレーンで鉄橋上の客車を川へ落とし、その後に機関車を吊り上げてそのままの状態で駅へ収容する段取りであった。2両の客車(下り列車の2両目と上り列車の2両目)にロープを掛けてクレーンで引っ張り、2両とも川へ落として片付けた。その後、機関車の炭水車も同様に川へ落とし、いざ機関車本体(55㌧)の番となってクレーンで吊り上げようとしたものの、双方の機関車の車輪が飴のように曲がったレールに食い込み、しかも双方の機関車は相互にめり込んで橋桁をも抱え込んでびくともしなかったのである。操重車の能力が限界を超え、無理をすると重心を失い操重車横転の危険性があった。そのため、操重車に替えウインチを使い、堤防からロープで引っ張り、川へ引きずり落とすことになった。東京品川の大井工場からウインチを運び、小宮側上流300㍍先の堤防上にウインチを設置してロープを機関車に掛け、作業員数十人がかりでようやく2両の機関車を川底へ引き落とした。画像こうして、長い時間をかけ、ようやく事故車両撤収の作業は終わったのだ。
 正面衝突事故から5日後、8月29日午後6時40分に小宮~拝島間は開通したのであった。多摩川の川底へ沈んだ機関車や客車は、65年経った今も、あのとき濁流が渦巻いて奔流した砂岩の下に鉄の残骸と化して埋もれている。そして時折、当時の多摩川鉄橋(小宮~拝島間)の大惨事を解き明かすかのように、台風などで激流にえぐられた川底からその残骸が現れるという。

エピローグ ・・小宮駅の北を流れる多摩川に架かる八高線の多摩川鉄橋、その近くの拝島側の土手は広い公園(くじら運動公園)になっており、その一角に、2対の赤黒く錆びた車輪が多摩川事故のモニュメントとして置かれている。画像2003(平成15)年に、多摩川鉄橋から少し離れた下流の河川敷から発見されて引き上げられた、多摩川鉄橋事故で濁流の中へ転落した車両の一部である。半世紀を超える長い眠りから覚め、薄れゆく終戦直後のあの大惨事の記憶を後世に伝えようとしているかのようだ。
 65年前の国鉄八高線多摩川鉄橋衝突事故では、指導式施行の下で生じた2つの推測(憶測)が大惨事誘因への引き金となった。一つは、2人の適任者(指導者)を派遣したことであり、一つは、列車番号を勝手に憶測したことである。そもそも、同一閉塞区間には指導者は1人と定められているところに2人の指導者を選定し、適任者として派遣した小宮駅の取扱が間違いであり、上り第4旅客列車の到着を待たずに下り第3旅客列車を運転する順序変更を行うなら、最初に派遣した適任者(指導者)を撤収するか廃止し、新たに下り列車に対する打合せ(適任者の派遣)を行わなければならなかった。
 当然に、2人の適任者(指導者)が各々に異なった内容の打合せ票を携えていたら、受ける側(拝島駅)の混迷は必至だ。よしんば、2人目の適任者を派遣することに至ったにしても、最初の適任者を廃止することや運転順序変更の旨を打合せ票に付記しておくべきであった。さすれば、拝島駅における迷いや推測は避け得たのではないか。小宮駅長が考えるに至った運転順序変更を行うにしても、いくら運行上に利するとはいえ、適任者を派遣した後では出来ない相談であったのだ。それは運心によって、適任者を派遣した駅の駅長はその適任者が帰着するか、対向列車が到着するまでは当該区間に列車を進入させてはならないと定められている通り、派遣した適任者が小宮駅へ戻るか、指導者同乗の上り第4旅客列車が小宮駅に到着したことを確認した後でないと、下り第3旅客列車は運転できないのだ。その定め(規則)を失念し、2人目の適任者を派遣して運転順序変更を図った考えと、上り第4旅客列車の運転を押さえたとする小宮駅長の確信は独り合点に過ぎなかったのである。
 また、2人の適任者の派遣を受けて運転取扱に混迷を来した拝島駅においても、その要因の元である打合せ票の内容の疑問を質すべく手配(相手駅への確認)もせずに、勝手に推測して打合せ票の内容を憶測で判断してしまったことは、小宮駅の誤った取扱を是正する機会をも失わせてしまった。
 とりもなおさず、多摩川鉄橋上の正面衝突事故は、代用閉塞式に対する職員の取扱精通度の欠如によって招いてしまった惨事であった。その後も、指導式による運転取扱を因とした運転事故発生のケースが絶えなかったことから、また、指導式は列車運行本数の大幅な制約につながり、その後の保安設備の機能向上も伴って指導式はほとんどの鉄道会社で廃止されるに至っている。
画像 記憶から遠くなった真夏の朝の大惨事。当時、多くの人が“真夏の夜の夢”であって欲しいと願ったことであろう。しかしながら、現実は如何ともし難く、直視せざるを得なかった。ただ、終戦直後の世情が混乱していた状況下にあったことから、世間に大きく報道されることはなかったといわれている。
 蛇足ながら、悪夢の大惨事から2年の時が流れた昭和22年(1947)9月22日、東京高等裁判所の第二審判決において藤田由吉(小宮駅長)に禁固8ヵ月、北川正成(拝島駅信号掛兼運転掛)に執行猶予2年の付いた禁固6ヵ月の刑が、それぞれ下された。   (終) ※舟越健之輔氏著による昭和60年(1985)12月20日毎日新聞社発行の『「大列車衝突」の夏』を参照させて戴いた。

この記事へのコメント

2011年02月01日 17:41
私の祖父(去年亡くなりましたが)は
昭和22年の事故車両に乗っていました。
昔の事なので 最近報道されることがなくなってきた事を
祖父は嘆いておりました。
たくさんの人が亡くなった事を忘れてはいけないと。

元国鉄マン
2014年07月02日 20:50
いささか、驚くと同時に運転指針の初歩の初歩を欠いた怖くて残念な大事故だった。閉塞区間には1人を指定して、その人間は必ずその列車に乗ることが原則。相手駅に伝令のために、Cと言う女性駅務者を空乗務させている。この場面でも正面衝突してもおかしくない。くしくもこの例では、この女性伝令者Cは助かった。男性のA,Bの2人の指導者は地獄の指導者となった、都合、3人の指導者発行という、そら恐ろしい行為だった。
元国鉄マン
2014年07月03日 17:54
八王子から突然、単機が小宮駅に来た。これも指導方式には、規則を守ってない。八王子駅からは、適任者Bは徒歩で小宮駅に来なければ成らない。
従って、小宮駅で指定した適任者Aとが途中で出会って確認し会わねば成らない。両駅で話合いが不可能なので、八王子駅~小宮駅間には列車が居ないことを確認する。この確認をして、どちらかが単機の指導者になって、小宮駅に向けての運転が行なうことが成立する。小宮駅が派遣した、適任者Aは、あくまで3列車の指導員の権限は残る。

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