気動車炎上から70年目
◇ ◇ ◇ 紀元2600年という節目の年であった昭和15(1940)年、その2月11日には紀元節の式典が盛大に催されようとしていた矢先の1月29日に、日本の鉄道史上で死亡者数最多の大事故が発生した。後に日本が太平洋戦争へと突き進むこととなった日中戦争(支那事変:1937(昭和12)年7月7日~1945(昭和20)年8月15日)が拡大化する中で、重工業を中心に軍需産業の工場施設が集中して活況を呈していた臨海地域を、当時の国鉄西成線(現・JR桜島線)は走っていた。
大阪湾からの西風が強く吹いていた1940(昭和15)年1月29日の寒い朝、その西成線において、大阪発桜島行き下り第1611列車(キハ42000形ガソリン動車3両編成)が沿線の工場群へ通勤する超満員の乗客を乗せて安治川口駅下り本線に到着予定で同駅構内を進行中の6時56分頃、下り本線と下り1番線を分ける転轍器(分岐器)上を通過中に最後部のガソリン動車(3両目)が脱線して横転し、洩れ出た燃料のガソリンに引火炎上して全焼、191人死亡・82人重軽傷という大惨事が起きた。
(昭和15年当時の西成線沿線概図)
◇ ◇ ◇ 西成線は、臨港線として建設(1898(明治31)年)されたことから沿線には工場群が点在していたが、輸送需要はそれほど高くはなかった。そこへ、日中戦争の拡大で急速に膨張した軍需産業の影響により、沿線への関連工場施設の集中で増大した朝夕の通勤輸送需要に、未電化・単線(通票閉そく式)の西成線による輸送力では対応が困難となり、ほとんど限界に達していた。
朝の沿線通勤者数は8000人を大幅に超え、ラッシュアワーには1時間(運転時隔10分が限度)に7本の列車(3両編成のガソリン動車列車6本、臨時の蒸気機関車牽引の6両編成客車列車1本)を運行していたが、7本の合計定員2700名では乗車率300%でも運びきれない輸送状況にあった。
こうした朝のラッシュ運行の下で、1940年1月29日の運行に就いていた下り第1611列車は安治川口駅への到着が3分半ほど遅れていた。当時、血の一滴ともいわれた燃料のガソリンを節約(国策)するため、途中の中六軒家川橋梁(西九条~安治川口間)を過ぎた後は下り勾配を利用して安治川口駅まではエンジンをアイドリングの状態にして、惰力で走行を続けるよう定められていた。そのため、同列車が安治川口駅の構内に入ってきたとき、その速度は20km/hほどの低速となっていた。
この下り第1611列車に続行するかたちで運転していたのが、限界にあった西成線の朝間ラッシュの輸送力を補うために運行されていた、蒸気機関車の牽引による臨時通勤列車の下り臨第6001列車であった。同列車は、大阪駅から安治川口駅までノンストップ運転で、安治川口駅には下り1番線に到着するダイヤであった。
◇ ◇ ◇ 3両連結のガソリン動車に超満員の通勤者を乗せた下り第1611列車が、安治川口駅下り本線に到着予定で同駅構内を進行中、本線と1番線を分ける転轍器にさしかかったとき、最後部車両のガソリン動車(キハ42056)が同転轍器上を通過中に1番線側へ転換し、同車両の後部台車が下り1番線側へ進入して、下り本線側(正常側)に進入していた前部台車と泣き別れ(前後の台車が各々異方向へ進入すること)てしまった。このため、最後部のガソリン動車は少しの間両線(本線と1番線)にまたがった格好で走行したが、両線の分岐間隔が広がるにつれ前後台車の間隔が車両を大きく横向きの状態にして、車輪に働いた異方向の力がレールをねじ曲げて脱線した。
脱線して横向きとなったガソリン動車は、そのまま構内を横切っていた踏切道(島屋踏切)の敷石上を横滑りして傍らの電柱に衝撃し、下り本線と45度の角度で横転してしまった。
横転したときの衝撃で、床下の燃料用のガソリンタンク(容量400㍑)が破損し、洩れ出たガソリンに何らかの火が引火した。炎は、大阪湾から吹きつける強い西風に煽られて火勢を増し、キハ42056号ガソリン動車は瞬く間に猛炎に包まれて全焼した。即死状態の乗客は150人を超え、病院搬送後に絶命する人も多く、最終的には191人が死亡し82人が重軽傷を負った。犠牲となった乗客は、ほとんどが火災による窒息死だった。
客車より一回りほど小振りのガソリン動車に、朝のラッシュ時とあって300人近くも乗車していた超満員状態で、一瞬の横転と火災の発生、強い西風という不運も重なって、日本の鉄道史上で最大の死亡者を出す大事故となった。原因は、安治川口駅の信号掛が下り第1611列車の同駅到着確認が不十分のまま、続行の下り臨第6001列車の到着線に対する転轍器の転換操作を急いだためであった。
◇ ◇ ◇ 本事故当時の西成線は、単線の通票閉そく式で、西九条~安治川口間は一つの閉そく区間であった。そのため、先行列車(下り第1611列車)が安治川口駅に到着後でないと、続行の列車(下り臨第6001列車)は西九条駅を発車できない。
安治川口駅の信号掛は、下り第1611列車が3分半遅延しており、しかも20km/hのゆっくりした速度で構内に入ってきたことで、このままでは続行運転中の下り臨第6001列車に対する西九条~安治川口間の閉そく(運転承認)を行うことが時間的に無理となって、同列車を西九条駅に臨停(臨時停車)させてしまうのではないかとの切迫感(目一杯のダイヤにさらに遅延を生じさせてしまうとの思いから…)にかられていたものと思われる。そうした状況(下り臨第6001列車に対する閉そくを一刻も早く行いたい、西九条駅の臨停を避けたいとの思いがあってか…)が信号掛に焦燥感を嵩じさせ、下り第1611列車の到着を確認しないまま、まだ同列車が本線と1番線を分ける転轍器を完全に通過し終わらないうちに、下り臨第6001列車を到着させることになっていた下り1番線側へ転轍器を早期転換(途中転換)させてしまった(下り1番線側へ転換させたことで下り臨第6001列車に対する場内信号機に安治川口駅進入の扱いができる)結果の事故であった。
当時の西成線には、転轍器の途中転換を防止する保安(鎖錠)装置は整備されていなかった。本事故は、刑事事件として起訴され、1940年10月9日に大阪地裁において、信号機と転轍器を誤扱いした安治川口駅の信号掛2名に業務上汽車転覆致死罪として禁固2年が宣告された。
◇ ◇ ◇ 内燃機関のガソリン動車は当時、総括制御のできない機械式(自動車と同じ)であったため、単車(1両)運転が原則であった。しかし、当時の西成線では、増え続ける朝のラッシュ輸送に対応するため3両編成運転とし、各々のガソリン動車に運転士を乗務させて相互にブザー合図によって連携運転する、協調運転を行っていた。
本事故で炎上したキハ42000形ガソリン動車は、1935(昭和10)年に登場したキハ40000形ガソリン動車の車体長を伸ばし、台車をそのまま使用した全長19.7㍍・150馬力ガソリン機関(GMH17形)を搭載した、当時としては最も大型の気動車であった。前頭部は当時流行の半流線型、3ドアを配した車内はセミクロスシートで、車体色としては当時では至極斬新なブルー(下半分)とクリーム(上半分)のツートンカラーを纏い、非電化区間の近郊輸送に活躍した。
しかし、引火点の低いガソリンを燃料とするガソリン機関の気動車では、万一の場合に危険は避けられないとして、後にディーゼル機関に換装されて形式をキハ42500形に変え、さらにキハ07形へと変わり、最後まで非総括仕様のまま昭和40年代まで活躍を続けた。
安治川口事故で、キハ42000形のガソリンタンクが破損に至った原因は、脱線した車輪が踏切道の敷石に乗り上げた際にエンジンの力を車輪に伝達する推進軸の継手が折損し、その端部がガソリンタンク下部を直撃したものだった。
その破損したタンクから洩れ出たガソリンに引火した発火源については、脱線車輪が踏切道の敷石上を走ったときに出た火花という説と、車両が横転した際に蓄電池回路の短絡によって発生したスパークであるとする説が挙げられたが、横転から車体の炎上までやや時間が経過(推定およそ5分)していたことから推測して、蓄電池回路の短絡説に高い可能性があるとされた。
また、車体構造(難燃性)について、昭和の初めの頃の鉄道車両に今日のような耐火構造は採り入れられてはおらず、木造車両も多かった当時に鋼製車両であったキハ42000形を、耐火構造云々は別として、本事故の原因の一つに挙げることには無理があろう。
◇ ◇ ◇ 「重傷を負うた車掌、大味彦太郎君(吹田町高畑)は、妻女とみ子(二九歳)、愛児順子さん(二歳)に見まもられながら、住友病院で、二九日午後九時二0分、ついに死亡した」…1940年1月30日の大阪毎日新聞夕刊に、“炎の車の義人”の見出しで載った記事である。
大味彦太郎(当時31歳)は、横転炎上した最後部ガソリン動車に乗務していた車掌だった。大味車掌は、乗務していた車両が横転したときに脱出可能なところに居たにもかかわらず、大混乱していた車内の沈静化に努め、車掌室の窓ガラスを割り、自らの肩を踏み台に呈し、懸命に乗客の脱出・救出にあたった。
さらに、炎上する車内で煙に巻かれながらも留まり、乗客脱出の手助けを続け、職務を全うしたのであった。大味車掌の下半身はすでに火傷にまみれ、車外から差し伸べられた手にすがって、ようやく救出されたのであった。
安治川口駅の東側近隣に建てられている安治川口事故の慰霊碑には、すでに遠い彼方の惨事でありながら、決して過去のものではないことを物語るかのように、今も献花は絶えないという。
安治川口事故の対策として、当時の西成線には、転轍器の途中転換を防止する保安装置が整備され、また、同線の逼迫していた輸送の抜本的改善策として、1941(昭和16)年5月に大阪~桜島間が電化され、電車運転に代わった。ただ、多数の死亡者を出した安治川口事故に対する緊急の施策ともいわれたこの電化工事(以前から電化の計画はあった)を「慰霊工事」と呼んだのは、本来なら滞っていた輸送力不足の状態を一刻も早く改善すべく行われた歓迎されるべき工事であっただけに、何とも寂しい感じもする。
戦後(太平洋戦争)、鉄道の内燃車(気動車)がガソリン動車からディーゼル動車に替わっていったのは、内燃機関としての高い運転効率と経済性のほかに、安治川口事故の悲惨な教訓が活かされてのことでもあった。

◇ ◇ ◇ かつての西成線は、1961(昭和36)年4月に改称されて「桜島線」となった。そして、今のJR桜島線は、全線複線電化の通勤路線として、またテーマパーク(USJ)へのアクセス路線として、“JRゆめ咲線”の愛称で6~8両編成の電車が行き交う近郊鉄道となっている。
安治川口駅のガソリン動車炎上事故から70年目の今日、地方幹線から支線に至るまで日本の鉄路の津々浦々で活躍を続けるカラフルなディーゼルカーを、はたまた新鋭のハイブリッドディーゼルカーの雄姿を見るにつけ、偲ぶ70年前の安治川口事故に昔日の念を禁じ得ない。唯々、この大惨事を風化させてはならないことを願うばかりである。 (終:「事故の鉄道史」参照)
大阪湾からの西風が強く吹いていた1940(昭和15)年1月29日の寒い朝、その西成線において、大阪発桜島行き下り第1611列車(キハ42000形ガソリン動車3両編成)が沿線の工場群へ通勤する超満員の乗客を乗せて安治川口駅下り本線に到着予定で同駅構内を進行中の6時56分頃、下り本線と下り1番線を分ける転轍器(分岐器)上を通過中に最後部のガソリン動車(3両目)が脱線して横転し、洩れ出た燃料のガソリンに引火炎上して全焼、191人死亡・82人重軽傷という大惨事が起きた。

◇ ◇ ◇ 西成線は、臨港線として建設(1898(明治31)年)されたことから沿線には工場群が点在していたが、輸送需要はそれほど高くはなかった。そこへ、日中戦争の拡大で急速に膨張した軍需産業の影響により、沿線への関連工場施設の集中で増大した朝夕の通勤輸送需要に、未電化・単線(通票閉そく式)の西成線による輸送力では対応が困難となり、ほとんど限界に達していた。
朝の沿線通勤者数は8000人を大幅に超え、ラッシュアワーには1時間(運転時隔10分が限度)に7本の列車(3両編成のガソリン動車列車6本、臨時の蒸気機関車牽引の6両編成客車列車1本)を運行していたが、7本の合計定員2700名では乗車率300%でも運びきれない輸送状況にあった。
こうした朝のラッシュ運行の下で、1940年1月29日の運行に就いていた下り第1611列車は安治川口駅への到着が3分半ほど遅れていた。当時、血の一滴ともいわれた燃料のガソリンを節約(国策)するため、途中の中六軒家川橋梁(西九条~安治川口間)を過ぎた後は下り勾配を利用して安治川口駅まではエンジンをアイドリングの状態にして、惰力で走行を続けるよう定められていた。そのため、同列車が安治川口駅の構内に入ってきたとき、その速度は20km/hほどの低速となっていた。
この下り第1611列車に続行するかたちで運転していたのが、限界にあった西成線の朝間ラッシュの輸送力を補うために運行されていた、蒸気機関車の牽引による臨時通勤列車の下り臨第6001列車であった。同列車は、大阪駅から安治川口駅までノンストップ運転で、安治川口駅には下り1番線に到着するダイヤであった。
◇ ◇ ◇ 3両連結のガソリン動車に超満員の通勤者を乗せた下り第1611列車が、安治川口駅下り本線に到着予定で同駅構内を進行中、本線と1番線を分ける転轍器にさしかかったとき、最後部車両のガソリン動車(キハ42056)が同転轍器上を通過中に1番線側へ転換し、同車両の後部台車が下り1番線側へ進入して、下り本線側(正常側)に進入していた前部台車と泣き別れ(前後の台車が各々異方向へ進入すること)てしまった。このため、最後部のガソリン動車は少しの間両線(本線と1番線)にまたがった格好で走行したが、両線の分岐間隔が広がるにつれ前後台車の間隔が車両を大きく横向きの状態にして、車輪に働いた異方向の力がレールをねじ曲げて脱線した。
脱線して横向きとなったガソリン動車は、そのまま構内を横切っていた踏切道(島屋踏切)の敷石上を横滑りして傍らの電柱に衝撃し、下り本線と45度の角度で横転してしまった。
横転したときの衝撃で、床下の燃料用のガソリンタンク(容量400㍑)が破損し、洩れ出たガソリンに何らかの火が引火した。炎は、大阪湾から吹きつける強い西風に煽られて火勢を増し、キハ42056号ガソリン動車は瞬く間に猛炎に包まれて全焼した。即死状態の乗客は150人を超え、病院搬送後に絶命する人も多く、最終的には191人が死亡し82人が重軽傷を負った。犠牲となった乗客は、ほとんどが火災による窒息死だった。
客車より一回りほど小振りのガソリン動車に、朝のラッシュ時とあって300人近くも乗車していた超満員状態で、一瞬の横転と火災の発生、強い西風という不運も重なって、日本の鉄道史上で最大の死亡者を出す大事故となった。原因は、安治川口駅の信号掛が下り第1611列車の同駅到着確認が不十分のまま、続行の下り臨第6001列車の到着線に対する転轍器の転換操作を急いだためであった。
◇ ◇ ◇ 本事故当時の西成線は、単線の通票閉そく式で、西九条~安治川口間は一つの閉そく区間であった。そのため、先行列車(下り第1611列車)が安治川口駅に到着後でないと、続行の列車(下り臨第6001列車)は西九条駅を発車できない。
安治川口駅の信号掛は、下り第1611列車が3分半遅延しており、しかも20km/hのゆっくりした速度で構内に入ってきたことで、このままでは続行運転中の下り臨第6001列車に対する西九条~安治川口間の閉そく(運転承認)を行うことが時間的に無理となって、同列車を西九条駅に臨停(臨時停車)させてしまうのではないかとの切迫感(目一杯のダイヤにさらに遅延を生じさせてしまうとの思いから…)にかられていたものと思われる。そうした状況(下り臨第6001列車に対する閉そくを一刻も早く行いたい、西九条駅の臨停を避けたいとの思いがあってか…)が信号掛に焦燥感を嵩じさせ、下り第1611列車の到着を確認しないまま、まだ同列車が本線と1番線を分ける転轍器を完全に通過し終わらないうちに、下り臨第6001列車を到着させることになっていた下り1番線側へ転轍器を早期転換(途中転換)させてしまった(下り1番線側へ転換させたことで下り臨第6001列車に対する場内信号機に安治川口駅進入の扱いができる)結果の事故であった。
当時の西成線には、転轍器の途中転換を防止する保安(鎖錠)装置は整備されていなかった。本事故は、刑事事件として起訴され、1940年10月9日に大阪地裁において、信号機と転轍器を誤扱いした安治川口駅の信号掛2名に業務上汽車転覆致死罪として禁固2年が宣告された。
◇ ◇ ◇ 内燃機関のガソリン動車は当時、総括制御のできない機械式(自動車と同じ)であったため、単車(1両)運転が原則であった。しかし、当時の西成線では、増え続ける朝のラッシュ輸送に対応するため3両編成運転とし、各々のガソリン動車に運転士を乗務させて相互にブザー合図によって連携運転する、協調運転を行っていた。
本事故で炎上したキハ42000形ガソリン動車は、1935(昭和10)年に登場したキハ40000形ガソリン動車の車体長を伸ばし、台車をそのまま使用した全長19.7㍍・150馬力ガソリン機関(GMH17形)を搭載した、当時としては最も大型の気動車であった。前頭部は当時流行の半流線型、3ドアを配した車内はセミクロスシートで、車体色としては当時では至極斬新なブルー(下半分)とクリーム(上半分)のツートンカラーを纏い、非電化区間の近郊輸送に活躍した。
しかし、引火点の低いガソリンを燃料とするガソリン機関の気動車では、万一の場合に危険は避けられないとして、後にディーゼル機関に換装されて形式をキハ42500形に変え、さらにキハ07形へと変わり、最後まで非総括仕様のまま昭和40年代まで活躍を続けた。
安治川口事故で、キハ42000形のガソリンタンクが破損に至った原因は、脱線した車輪が踏切道の敷石に乗り上げた際にエンジンの力を車輪に伝達する推進軸の継手が折損し、その端部がガソリンタンク下部を直撃したものだった。
その破損したタンクから洩れ出たガソリンに引火した発火源については、脱線車輪が踏切道の敷石上を走ったときに出た火花という説と、車両が横転した際に蓄電池回路の短絡によって発生したスパークであるとする説が挙げられたが、横転から車体の炎上までやや時間が経過(推定およそ5分)していたことから推測して、蓄電池回路の短絡説に高い可能性があるとされた。
また、車体構造(難燃性)について、昭和の初めの頃の鉄道車両に今日のような耐火構造は採り入れられてはおらず、木造車両も多かった当時に鋼製車両であったキハ42000形を、耐火構造云々は別として、本事故の原因の一つに挙げることには無理があろう。
◇ ◇ ◇ 「重傷を負うた車掌、大味彦太郎君(吹田町高畑)は、妻女とみ子(二九歳)、愛児順子さん(二歳)に見まもられながら、住友病院で、二九日午後九時二0分、ついに死亡した」…1940年1月30日の大阪毎日新聞夕刊に、“炎の車の義人”の見出しで載った記事である。
大味彦太郎(当時31歳)は、横転炎上した最後部ガソリン動車に乗務していた車掌だった。大味車掌は、乗務していた車両が横転したときに脱出可能なところに居たにもかかわらず、大混乱していた車内の沈静化に努め、車掌室の窓ガラスを割り、自らの肩を踏み台に呈し、懸命に乗客の脱出・救出にあたった。

安治川口駅の東側近隣に建てられている安治川口事故の慰霊碑には、すでに遠い彼方の惨事でありながら、決して過去のものではないことを物語るかのように、今も献花は絶えないという。
安治川口事故の対策として、当時の西成線には、転轍器の途中転換を防止する保安装置が整備され、また、同線の逼迫していた輸送の抜本的改善策として、1941(昭和16)年5月に大阪~桜島間が電化され、電車運転に代わった。ただ、多数の死亡者を出した安治川口事故に対する緊急の施策ともいわれたこの電化工事(以前から電化の計画はあった)を「慰霊工事」と呼んだのは、本来なら滞っていた輸送力不足の状態を一刻も早く改善すべく行われた歓迎されるべき工事であっただけに、何とも寂しい感じもする。
戦後(太平洋戦争)、鉄道の内燃車(気動車)がガソリン動車からディーゼル動車に替わっていったのは、内燃機関としての高い運転効率と経済性のほかに、安治川口事故の悲惨な教訓が活かされてのことでもあった。

◇ ◇ ◇ かつての西成線は、1961(昭和36)年4月に改称されて「桜島線」となった。そして、今のJR桜島線は、全線複線電化の通勤路線として、またテーマパーク(USJ)へのアクセス路線として、“JRゆめ咲線”の愛称で6~8両編成の電車が行き交う近郊鉄道となっている。
安治川口駅のガソリン動車炎上事故から70年目の今日、地方幹線から支線に至るまで日本の鉄路の津々浦々で活躍を続けるカラフルなディーゼルカーを、はたまた新鋭のハイブリッドディーゼルカーの雄姿を見るにつけ、偲ぶ70年前の安治川口事故に昔日の念を禁じ得ない。唯々、この大惨事を風化させてはならないことを願うばかりである。 (終:「事故の鉄道史」参照)
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