春闘 あの時から35年

2月は、働く者にとっては春闘の始まる季節だ。その春闘も、世相を大きく反映して半世紀足らずの間にその内容もいろいろと様変わりしてきた。ベア一辺倒から、労働条件の改善、待遇改善、雇用安定、雇用確保へと闘争の主柱を変えながら、今年は非正規労働者問題(パート・契約社員の正社員化)への取組も初めて闘争の柱に据えるところも出てきた。
 しかし最近では、再びベア要求へと揺り戻されつつあり、今年あたりは要求基準に金額を明記したところも多いという。ただ、今ではかつての“春闘=ストライキ”は影を潜め、労使協調が浮き彫りされる昨今ではある。そんな春闘の季節が巡ると、その度に必ず思い起こす一つの事件がある。

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 東京のベッドタウンとして団地が広がる上尾市、列車に乗れば40分弱で都心の上野に至るJR高崎線の上尾駅は、毎朝多くの通勤・通学客で活気を見せる。
 そんな上尾駅で、35年前の1973(昭和48)年3月13日の朝、2月初旬から繰り返されていた当時国鉄の国労・動労によるスト権奪還統一行動(国鉄はじめ公共企業体にスト権はなかった)と称した順法闘争(列車の一時停止や速度規制を過度に守ってストの効果を生む手法)の影響から、連日にわたっていた国電の運休・遅延に利用者の怒りが爆発して暴動が起きた。 後に「上尾事件」と呼ばれた、春闘の最中で起きた国鉄未曾有の出来事だった。

画像1969(昭和44)年6月の衆議院運輸委員会で、就任(1969.5)早々の磯崎叡第6代国鉄総裁は「国鉄再建を軌道に乗せるには、内部の人間関係が最も重要な決め手であり、今後は人間関係の改善に力を入れていきたい」、と答弁した。
 当時、国鉄は大幅な債務超過の状態にあったため、国鉄財政再建計画(10ヵ年計画)を実施中であった。磯崎総裁は、財政再建の必要性を強調して、1970(昭和45)年4月に幹部職員に対する生産性教育講習(3年計画)をスタートさせた。これを「生産性向上運動」と称して、労務管理の強化を図って国鉄再生を目指した取組であった。この生産性教育は、教育関係の資料に“生”の字を○で囲んだ判を押したことから「マル生」と呼ばれていくことになったが、このマル生運動がどこかで大きく脱線していったのである。
 すなわち、生産性教育で“強くなれ”と励まされ続けた現場長の高姿勢を際立たせ、スト反対の署名活動や国労批判が精力的に行われ、国労組合員の大量脱退や、ストをしない鉄労への流入という現象を生じさせた。当然、国労は反発し、昇級や昇格をエサに悪質な利益誘導が公然と行われ、マル生運動に名を借りた組織破壊だと声明を発し、総評と社会・共産両党のバックアップを得て国鉄当局(以下当局)との対決に発展したのだ。
 国労側は、1971年の春闘から「マル生反対」を闘争のスローガンに掲げ、労使の対立を深めていった。こうして、マル生は最初の目論見からは乖離してゆき、およそ“人間関係の改善”とは裏腹な様相を呈していったのである。

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労は、1971年秋の全国大会を経て、マル生を不当労働行為として公労委(公共企業体等労働委員会)へ提訴した。その結果、磯崎総裁は1971年10月にマル生運動の行き過ぎを指摘した公労委の陳謝命令の受託を発表し、当局の生産性向上運動は挫折・崩壊した。
 これは、国労に勢いを取り戻させ、同時に当局ではマル生運動の前より一層物言わぬ管理者を生み、国鉄の職場はますます荒廃していった。そして、国労と動労はその後もスト権奪還を標榜して、当局との間で激しい闘争を繰り広げていった。その繰り返される“スト権スト”(スト権奪還闘争)の最中、1973年3月12日から始まった8回目の順法闘争2日目(13日)の朝、列車の大幅な遅延運転が日常化していた高崎線の上尾駅を中心に起きた首都圏における乗客による暴動事件は、これまで国鉄が経験したことのない事態となった。

時の高崎線沿線は、とりわけ上尾・桶川・鴻巣駅周辺は急速に都心へのベッドタウン化が進みつつあった。そうした沿線の利用者急増に対して、大宮~上野間は高崎線と東北本線が線路を共用していたことから列車の増発が困難であったため、ラッシュ時の列車は恒常的にすし詰め状態が続いていた。当日(3月13日)も乗客は、ストによる列車の遅れを見越して早めに駅(上尾)へと赴いていた。
画像 午前7時20分、3000人を超す乗客で溢れていた上尾駅に定刻より20分遅れて籠原発上野行きの電車が1番線に到着した。が、すでに途中駅からの乗客で超満員だった。続いて2番線にも後続の電車が入ってきたものの、こちらも同様だった。
 両電車とも急行用(2ドア車)の間合使用(稼働率向上を図った本運行の合間使用)であったため、普段(3ドア車)より少ないドアに乗客が殺到した。しかも、一向に発車しない電車に乗客のイライラが頂点に達していたところへ、両電車とも次の大宮止まりに変更との案内放送が流れた。この放送がきっかけであった。
 ホーム上の乗客が電車の運転室に乱入して運転士に詰め寄り、数人が線路に降りて投石するなど暴力行為が始まり、それに触発された車内の乗客も加わって電車の窓ガラス・室内灯・座席シートなどを破壊、新聞紙などが燃やされる騒ぎとなった。そして、一部は暴徒化して駅事務室を占拠し、事務室内を手当たり次第に荒らすなどの暴動となった。
 一方で、動かない電車に業を煮やした乗客たちが、約8㎞先の大宮駅に向かって線路上を歩き出し、途中の宮原駅で助役を人質にして一緒に歩かせたり、大宮駅に着いても事務室を占拠し、列車に投石するなど収拾のつかない状況に至った。こうした暴動・騒動は、桶川・北本・鴻巣などの駅でも発生したため、高崎線は当日の午後5時半頃まで10時間以上にわたってストップし、大混乱に陥った。
 その暴動後も、連日のように列車運行の乱れは続き、乗客の憤懣はさらに募っていった。

んな折り、1973年4月24日に国労が一般順法の、動労が強力順法の闘争に突入したことから、夕方ラッシュ時の電車運行が完全なマヒ状態になっていた。こうした状態に怒りを発した乗客は、首都圏の各駅で連鎖反応的に電車の窓ガラスを割ったり、駅施設を破壊するなど、騒乱状態に発展した。
 こうした緊迫の事態に対して国労と動労は、順法闘争が引き起こしたことを憂慮して、共に事態収拾のため当局に協力することで合意することとなった。しかし、時すでに遅くに失し、破壊された電車の後始末に混乱は翌日まで続いた。
 ちなみに動けずに駅に取り残された破壊した電車(括弧内は運転不能にまで破壊された電車)は、山手線26本(5本)、京浜東北線14本(5本)、中央線4本(2本)、高崎線9本(1本)など、全体で67本に及んだ。

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 その後、1973年9月には暴動事態の責任を問われたかたちで辞任した磯崎総裁に替わって、第7代総裁の椅子に就いた藤井松太郎総裁は折からの不況下で国鉄の財政状態が刻々と悪化の途をたどる中で、“マル生”後遺症の立て直しのため労使協調路線を採った。
 しかし、スト権奪還を目指す総評系の国労・動労などは当局への攻撃を弱めず、1975(昭和50)年11月25日から12月3日にかけて実施したスト権ストは、国鉄史上空前の8日間・192時間に及んだ。
 この長時間にわたる労使紛争は、あてにならない鉄道貨物輸送から道路輸送への切換を促進させるきっかけとなって、国鉄の貨物輸送に大きなダメージを与える結果をもたらし、これを境に国鉄貨物輸送のシェアは大きく落ち込んでいった。
 輸送に定時・安定性を求めた社会要請からも大きく離脱してしまった国鉄の貨物輸送は、輸送機関としての機能・体質を大幅に後退させていった。これによって国鉄の貨物輸送は、輸送形態の大胆な見直しを余儀なくされ、その貨物輸送が生む膨大な赤字体質が国鉄財政の圧迫を一段と加速させる結果となった。そして、国鉄が崩壊へと進むこととなった要因を孕んでいったのである。
 日本国有鉄道崩壊の底流には、双方(労使)に乖離を見た労使協調を失したマル生運動挫折の影が、色濃く潜んでいたともいえよう。

画像の上尾事件から今年で、35年が経つ。その国鉄も今はない。当時、都内の広告会社に通うサラリーマンだった作家の舟越健之輔さん(65)は、上尾の団地住まいだった。事件の朝、舟越さんはいつもの通り通勤者の一人として、駅の中も外も人で溢れていた上尾駅にいた。“暴徒”には加わらなかったが、舟越さんには乗客の気持ちがよく分かったという。
 勤め先で労働組合を立ち上げ、ストライキもした舟越さんは、労働運動は大切だと思っていた。でも、国鉄の闘争にはうんざりした、と述懐する。その上尾事件について書いたのがきっかけで、ある編集者から執筆を勧められた。4年半かけて上尾事件について国鉄職員や沿線住民などから話を聴取しながらも、取材に没頭するため会社を辞めた。そして、団地という箱に、列車という箱に押し込められた人々の有り様を描いた「箱族の街」(ルポ、日本ノンフィクション新人賞受賞)を1983(昭和58)年に出版した。今も上尾市内に在住する舟越さんは、当時の上尾住民には自分たちがあの国鉄闘争を撃滅したという思いがあったのじゃないか、と振り返る。

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 その国鉄闘争から35年、国鉄の崩壊から20年余り、国鉄の分割・民営化で6つの旅客会社と1つの貨物会社となったJRは今、堅調な経営の下で公共交通としての使命を果敢に果たしている。ただ、その底流には、戦後の国鉄がその歴史の中でかつて経験したことのない波乱と激動を凌いできた35年前のあの時が、さまざまなかたちで今日に至るレールを支えてきた礎であったことも、また忘れてはならないだろう。 (終)
 

この記事へのコメント

ロム・インターナショナル 菅沼
2017年03月12日 17:39
在りし日 執筆者さま

 突然のご連絡失礼いたします。
 私、書籍の編集製作をしております、ロム・インターナショナルの菅沼と申します。
 
 現在、弊社にて懐かしの鉄道風景を紹介する一般書籍を制作しております。1970年代~80年代にかけての、現在の日本では見られないような鉄道風景(駅舎、車両など)を多数掲載する本です。

その本の中で、記事にあわせてご所蔵のお写真を掲載させていただきたく、ご連絡差し上げた次第です。

 つきましては、まずは掲載に対して可・不可か、
お手数おかけして大変恐縮でございますが、下記メールアドレスへご連絡いただけませんでしょうか。

 掲載にあたりましては、御ブログ名(または御氏名やURLなど)をクレジット表記させていただこうと考えております。
 また、具体的な金額についてはまだ申し上げられませんが、多少の掲載料をお支払いする用意もあります。

お忙しいところ不躾なお願いを申し上げて大変恐縮でございますが、
何卒お取り計らいのほど、よろしくお願い申し上げます。

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